第 1 週 平成19年12月2日(日)〜8日(土) 

第2週の掲載予定日 平成19年12月9日(日)

 峡 の お く に
 
(1p目/10pの内)



    挿画 児玉悦夫
  木目が浮き出た縁側にはまだ日はさしていない。 東と北の小
 高い雑木山が家をつつみこんでいて、朝の太陽をさえぎって
 いる。 だが、向かいの西林岳やはるか南西の尾鈴山。 ちょっ
 ぴりのぞかせるその頂上と稜線とが白っぽく光って見えた。
  直ぐ下を流れる坪谷川の瀬音は風の加減て遠いが、石を越ゆ
 る水がキラキラ目に痛い。
  日中のきびしい暑さをしのばせるに十分である。
  マキは、さっきから縁側にいた。 朝の片付けもすんだ。それに
 けさは気分がよい。 このところの不快がぬぐったようだ。
  見なれた景色が、けさは違った風景に見えた。 座り直して眺め
 入る思いであった。
  突然、下腹がキりキリと痛んだ。 急な痛みであったが、マキが
 あわてることはなかった。  きょう明日と予期していた産気て
 あった。
  明治十八年八月二十四日朝。三十八歳でマキは初めての男の
 子を生んだ。  夫 立蔵は四十一歳であった。
  宮崎県東臼杵郡東郷村(現在日向市東郷町)大字坪谷一番地
 (現在は三番地)。木造二階建て、当時としては瀟洒(しょうしゃ)
 な造りの若山医院の診察の間が産室になった。
  立蔵、マキにとって、この男の子が初めての子供てはない。
 明治元年に長女スエ、三年に二女トモ、八年に三女シヅが生まれ
 ている。 男の子は、シヅから十年目。 しかも半ばあきらめかけ
 ていたところに授った跡取りであった。 両親の喜びようは想像て
 きよう。
  立蔵の両親、健海とカメは坪谷から下流に約十`余。坪谷川と
 耳川本流が合流する同村山陰にいた。
  健海は医師で若山医院の創設者てある。 立蔵と、弟純曽も跡
 を継いで医道を選んだ。 純曽は山陰で開院。そこに健海とカメ
 は当時同居していた。
  近所の若者が使いに走った。生まれたばかりの男の子にとっ
 て、祖父母と叔父にあたる彼らの喜びようも、父母のそれに劣ら
 なかった。
  家では姉たちが、年頃を忘れてはしゃいでいた。
  若山医院は坪谷の集落の一番のはずれ、訪れる者からすれば
 とっつきにある。  だから旅芸人らが同院を“濡れワラジ”にした。
  濡れワラジ。  集落を訪れてはじめて一宿一飯の世話になった
 家のことをこう呼ぶ。 地理的条件と院長若山立蔵の世話好きな
 性格から、同院を濡れワラジにする旅人が多かった。
  だから、もともとにぎやかな家だが、この日から、昼も夜も祝い客
 の応待にいとまがなかった。    マキはゆっくりやすめなかった。

        おもひやるかのうす青き峡のおくに
               われのうまれし朝のさびしさ

  男の子、つまり若山牧水は、この朝の情景を詠んで第四歌集
 『路上』
に収めている。
  だが、まだ彼は“男の子”であって名前がない。 その命名でひ
 と悶着があった。
  祖父健海は、本家の跡取り息子の名前に注文があった。 
  命名の日がくると、それまで立蔵宅にいたのが、『玄虎』と名付
 けるよう言いおいて、さっさと山陰の純曽宅に帰って行った。
  『玄虎』。広辞苑をひくと『E・(名に玄の字がつくことが多加った
 から)医者、僧などの異称』と“玄”の文字の説明がある。
  杉田玄伯もその例である。 若山医院本家の三代目を継ぐはず
 の男の子に、医者らしく、いかめしい名前を選んだのであろう。
  絶対の権力者てあるべき“名付け親”に思わぬ伏兵がいた。 
  三人の姉娘たちであった。
  彼女らのかわいい弟に名付けて『げんこ』とは余りにもなさけな
 い命名に思えた。
  当時の東郷村では行商人らが数字に符丁を使っていた。
  一(ソク)、ニ(リャン)、三(テン)、四(ワサ)、五(ゲンコ)、六
 (メトル)、七(ヨシボ)、八(タカボ)、九(キワ)、と言ったぐあいだ。
  『げんこ』は五(ゲンコ)に通ずる。 それに『げんこげんにがんこ
 げん。牛や二十五文メ』の里のざれ歌まてある。
  祖父に内緒で、弟にふさわしい名前をつけようと、彼女らが謀反
 した。
  そして命名されたのが「繁』である。
  当時、彼女らが愛読していた『東京絵入り新聞」に連載小説『朧
 影墨絵筑波根』(おぼろかげすみえのつくばね)の女主人公志計
 留から思いついたものだ。
  本文に「葉山の家の繁れるよう』とあるのを『若山の家の繁れる
 よう』と置きかえて両親を説得もしている。
  いかにも文学少女らしい思い付きだった。
  弟への愛情も深い。 男の子の誕生が、いかに若山家に待ち
 遠いものであったか。 思いしのばれるエピソードである。
  まだ、この類の話は続く・・。
  姉シヅと繁との間に十歳の開きかおる。 実はこの間に三人くら
 いの子供があったが、惜しくも育だなかった。
  それに立蔵は前厄。 この子の成長を心配する思いが、喜びの
 裏にあった。
  土地の風習の拾い子で災難を免れることにした。 医院の裏門
 の傍らに桜の大樹がある。 いったん繁をこの下に捨て、奈須
 チヨが拾って若山家に預けた。 チヨの家が天領時代の番所
 だった。 繁は『番所のおっかあ』 『番所のおっかあ』と、なつく
 ことになった。
峡 の お く に
 
(2p目/10pの内)











挿画 児玉悦夫
峡 の お く に
 
(3p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫

  繁が拾われた桜の大樹は、山桜が多いこの地方では珍しいハ重
 桜であった。この家に三本あるだけで他には見なかった。ぼたん
 桜と呼ばれたこの桜は、他所者である健海がどこか知らぬ土地か
 ら持ってきたものであろうか。
  桜には、いまひとつ絵のような物語りがある。 母マ牛にかかわ
 る話だ。
  坪谷からさらに十六`ほども上流に南郷村がある。ここは天領の
 坪谷と異なり延岡藩の所領であった。 この村の″流され″に小さ
 な関所が設けられていた。
  その関所に藩士長田勘三郎が勤番していた。 マ牛はその長女
 である。
  ある年の春、マキが知人ら幾人かと連れ立って神参りの途次、若
 山医院(と当時言ったかどうか?)の前の街道を通りかかった。
 たまたま一人、連れに遅れていた彼女の草鞋のひもがゆるんだ。
  彼女は、桜の根元に腰をかがめてひもを結び直した。もちろん僅
 かな時間でしかない。
  その僅かな時間のささやかなマキのふるまいをしかと見てとった
 のが、たまたま庭に出て狭い菜園の野菜類の生育ぶりに目をとめ
 ていた健海とカメの夫妻であった。
  その時のマキのどこがどう気に人ったものか・・。彼女の身もとを
 たずね、人を介して遮二無ニ長男立蔵の嫁にと懇望した。 そして
 実を結んだのが慶応二年の秋であった。
  牧水は、
『おもひでの記』の一章“牡丹桜”にこのことを記してい
 る。

  
 『・・恰度(ちょうど)花の盛りで、紐(ひも)を結びながらも思はず
  見惚(ほ)れてゐたといふ若かった母の面影がこの木の花を見る
  ごとに私の想像に上ったものであった』


  それだと春のころになる。だが、大悟法利雄氏は、立蔵は慶応二
 年の春、二十二歳で結婚しているが、新妻はエイと言った。そして
 数ヶ月後に病死している。 その年の秋、再び迎えたのが十九歳
 のマキであった・・としている。
  牧水は母からこのエピソードを聞いたものであろう。マキの記憶違
 いか、牧水の聞きあやまりか・・。
  だが、ぼたん桜と土地の人たちが珍しがった八重桜。らんまんと
 咲き盛る根元で草鞋のひもを結び直す娘。着物の柄から手甲脚絆
 の色まで目に浮かぶようだ。
『おもひでの記のまま、絵にしてお
 きたい気がする。
  ともあれ、この桜には母にも子にも、忘れ難い思い出がある。ちょ
 ど手にとって見る桜の花びらのような淡い色合いながら・・。

 
     父母よ 神にも似たるこしかたに
             
思ひ出ありや 山ざくら花 (別離)

  この歌は 『思ひ出ありや ハ重桜花』 とした
方が事実か
 もしれない。


  坪谷の若山家の創始煮てある健海は、前日の八重桜にかかわ
 って書いたように他所からの移住者てある。
  健海は、文化八年(一八一一年)二月三日、現在の埼玉県所沢
 市大字神米金の農家に生まれている。 好学、刻苦精励の人で天
 保年間、若くして長崎て蘭学と西洋医術を学んでいる。 どうして日
 向の国にきたのか詳かでないが、宮崎市(現在)の医師福島退庵
 と共に健海倅(せがれ)立造(立蔵の幼名)、退庵倅鯉一郎ら九人
 に種痘を行った記録『種痘人名録』が健海の自筆で残されている。
  わが国の種痘の歴史には諸種の論考がある。 健海をその中で
 どう位置づけるか、専門家にまかせるほかはない。 だが、先の
 『種痘人名録』の年月が“嘉永酉初春上旬”とあるところからも、わ
 が国の種痘伝来、普及に一役買った先覚者の一人であったことは
 確か・・とされている。
  さて、健海が日向市から約二十四`の坪谷に移住し、医業を始
 めたのは天保七年(一八三六年)であった。
  医院は前にも述べた通り集落の入り口。 しかも背後に小高い雑
 木山前面に坪谷川と峡谷の村には珍しくひらけた田畑かあり、は
 るかに尾鈴連山を遠望する好位置に建てた。
  牧水は
   
 『此処に新たに家を建てた事に就いても私は祖父を並ならぬ
    人の一つに思はざるを得ぬのである』   (おもひでの記)

  と、自然景観に対する健海の見識をたたえている。
  健海は、天保十三年、三十二歳で結婚した。 妻はカメと言い、
 十七歳であった。 カメは生まれは美々津(日向市)だが、その母
 が東郷村下三箇の水野家の後妻に入り、同家にいた。
  ここで祖父母の人柄を紹介する。 健海は経歴からも想像される
 通り謹厳な人で、酒もたしなまなかった。 一方のカメは、女にして
 はかなりの酒好きだった。
  体格も健海が偉丈夫然としていたのにカメは小柄。 『美々津で
 小唄うたうな』を地で行ったわけじゃあるまいが、飲めば三味線を
 ひき、うたい、踊る、陽気なたちだった。
  あとで述べるが、立蔵、純曽の兄弟は、父より母の体質を受け継
 いだらしい。 無類の酒好きで、晩年まで二人が会えば必ず酒。
 しかもいつ果てるともなく続いた。 患者泣かせであった。
  マキが嫁にきてからもカメの酒好きはいよいよ盛ん。 近所に祝
 いがあってカメが酔って帰ると、健海は『酒樽と寝るようだ』と屋外
 に出して戸を締めることがあった。
  それでもカメは庭でひとりはしゃいでいた・・というから相当なも
 のだ。
  健海が寝入ってからマキがそっと迎え入れた。 そのマキもまた
 愛酒家であった。
峡 の お く に
 
(4p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫