第 11 週 平成20年2月10日(日)〜平成20年2月16日(土) 

第12週の掲載予定日・・・平成20年2月17日(日)

白    雨
(1p目/10pの内)








 挿画 児玉悦夫

 
海に浴びて帰る松原末遠く青葉若葉に白雨(ゆうだち)のふる
                           (都農にありける頃)

 清水湧く山路なかばの松かげに荷馬車の旗のひるがへる見ゆ

 八月十二日付けの日州独立新聞『独立文界』に掲載された牧水
の歌九首のうちの二首。詞書のとおり、今回の都農行の所産で
あった。
 さらに十七日には第二回目が掲載された。三面に六号活字で組
まれ、
『野の草』の題が付してある。その十首から二首。

 
朝餉たく水汲み居れば野の谷に野ゆりの花のほろほろとちる

 峰にねて雲に下界は見えずなりぬただ親しきは星のまたたき
                            (尾鈴に夜泊して)


 三回目は九月四日。
『はつ秋』と題して

 
幾むれか花野をよぎる絵日傘に日かげうららの秋まつりかな

 村長のいたつきいよよおもりゆく十戸のむらの秋の雨しつか


 など十首。四回目は九月六日になるが、この時は、西郷村小川
の歌友小野兵太郎(涼風)との競詠になっている。また牧水は一
回目は白雨楼としたが、二回以降は号を白雨としている。

 
咲きにけり庭の白百合さきにけりいざ筆そめむすず風のもと
                                 (涼風)

 野のあした草かる乙女の唄さえて利鎌に高きにゆりの薫りや
                                  (白雨)

 たがすてし萩のはつ花乙女子がひろひて行きぬ草ふみわけて
                                   (涼風)

 水ゆけり土橋かかれり露みてり萩のいけがき花ちるしきり
                                 (白雨)


 四首ずつ詠ん“ているが、そのいきさつは詞書にある。

 
『二十八日の夜、四里余の山路を踏んで涼風子の訪はせらるるに
会ひぬ。よもやまの話の末、ただ山茶すするも甲斐なし、いで三十
一文字ならべてんやと、誰が言ひ出しにあらねど、自ら心合ひて、
時節から百合と、萩とを題にして首傾けぬ。折しも山嵐さとおろしき
て、窓の燭火またたく事しきり。』(白雨記)


 小野が住んでいる西郷村小川は、若山医院の診療所があったと
ころ。牧水が小学校入学前後を過ごしている。
 小野涼風が十六`はどの山路を越えてきたのを牧水は二十八日
と書いている。だが、日記には、『二十四日、晴。夜涼風子と歌合せ
を行ふ、夜涼、身にしみてうれし』とある。牧水の誤記か、新聞の誤
植か−。
 涼風は一夜泊って翌日帰っていった。
 このあとも十八日、十九日。十月も十二日に『野虹会詠草』として
牧水と級友の直井翠村(敬三)の歌が競泳の形で紹介された。
 牧水の名は県内に高まった。
  牧水と翠村の競詠『野虹会詠草』とは、この秋、二人が短歌研究
会『野虹会』をつくったものだ。
 曙会が、文芸一般を対象にしたのに対し、野虹会は短歌研究一
本にしぼった。これは牧水が歌人としての通を自覚しはじめたあらわ
れとも思える。
 間もなく、大内財蔵、河野新三、伊藤金蔵、猪狩毅、吉田律、大見
達也らが加わった。そのうえ、延岡中学校生徒以外の若い歌人らも
次々に参加した。
 だが、はじめは、会員宅に集まって歌を作ったり、互いに批評し合
う程度だった。回覧雑誌『野虹』が出るのは翌年のことになる。
 当時、曙会、野虹会。牧水の周辺には歌を作る多くの友人が集
まった。しかし、県紙『日州独立新聞』に作品が掲載されるのは彼ひ
とりであった。出たにしても、『野虹会詠草』として、牧水の歌に付随
して紹介されるにとどまっている。一方、花の作品も相変らず続
いて『独立文界』に出ている。白雨と花。一躍、この欄の花形と
なった。牧水と級友らとの文芸における力と名声の差はいよいよひ
ろがるばかりであった。
 十月下旬、同欄をにぎわした歌のなかから数首を抜いてみる。

 売らるべく市にひかるる馬の子の今日の嘶きなどかくひくき

 実をとるとつどひし子等はみないにて夕べ静かに銀杏葉のちる

 雨暗き夕べをそぞろ窓によれば村のはずれの鐘ひくう来る


 『秋かぜ』『白菊』(一)(二)と題してそれぞれ十首ずつをのせて
いる。
 この秋の十月十七日、延岡中学校で県下中等学校の連合運動
会が催された。
 牧水の日記にこうある。

 十七日、晴、今日コソ待チニ待チシ大運動会ノ日ナリ、六時半登
校、ヤガテ始マル、始メノ方ハ不成績ナリシモ、後ニテハ結果大二
好ク、遂二五十点ヲ得タリ、師範モ同点ナリシモ、同校ハ面白力ラ
ヌ行為アリタリヤニテ、僅カニ優勝旗ヲ取次ギテ吾レニ渡シタルニ
過ギズ、即チ其点数ハ延中五十、師範五十。


 優勝にわく延中生は、二十日午後三時から今山まで同校名物の
観がある提灯(ちょうちん)行列をして市民に大いにアピールした。
 今山では赤飯のにぎりめしの接待にあずかり『帰路、頗ル愉快ナ
リ』生徒たちは肩いからせて延岡町をかっ歩した。
 短歌はおとなびた調べだが、そこはまだまだ中学生。赤い血をわ
かせている。
 十一月七日からは、熊本県に修学旅行に出発する。牧水には初
の修学旅行であった。 
白    雨
(2p目/10pの内)









 挿画  児玉悦夫
白    雨
(3p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
 十一月に熊本県内で陸軍特別大演習が行なわれた。学校がそ
の見学をかねて修学旅行を計画したものだった。
 牧水は、これまでの修学旅行には一度も参加しなかった。旅行
中、坪谷に帰省して父母のもとで過ごしている。
 今度は事情が異なる。天皇陛下ご行幸のもとの大演習と観兵式
を見学できる。二度と訪れることのない好機である。
 十月二十四日に学校で、旅行計画が発表されるや即日、父立
蔵に参加の許可を求める手紙を出した。旅費は三円五十銭。十一
月二日までに納付しなければならない。
 三十日に坪谷から許可の便りがあった。八円同封してあった。
 坪谷からの送金で気が大きくなった。三日後には細島出身の級
友日高園助を誘って中町のパン屋に行った。食い盛りの彼らの手
取り早い散財はアンパン食いだった。仲間うちでは『アンパン攻撃』
と言った。
 東京・銀座の木村屋がアンパンを売り出したのが明治八年。延岡
でもすでに木村屋に劣らぬうまいアンパンがあった。
 六日は、明朝の出発を控えて旅行の準備で半日を費す。参加生
徒は百四十余人。軍隊式に、小、分隊を編成、牧水は第三小隊第
四分隊長を命じられた。
 雨天体操場で旅行中の注意伝達があって帰宅。こんどは個人
の旅支度。終わってぜんざいを食った。興奮して寝つかれない。
 翌七日は朝から快晴。これから越え行く日之影、高千穂の山々
が冷えた秋空にくっきり浮かんでいる。
 五時に家を出て、七時校門をラッパの音も高らかに出発する。
北方村曽木で昼食。同日は滝下に宿泊したが、牧水は級友金田
の招待で槙峰の同家に厄介になった。家族の原遇に感謝して第
一夜の夢を結ぶ。谷川の瀬音が高く、疲れているのに容易に眠れ
なかった。
 翌八日は六時半に金田宅を出る。母と妹が新町まで見送ってく
れる。
 金田の父君は槙峰鉱山に勤務していた。同鉱山は明暦三年
(一六五七)に発見され、明治三年(一八七〇)に延岡・内藤藩に
所属したが、明治二十二年(一八八九)からは三菱経営に変わっ
た。以後、製錬所、選鉱所、索道など整備が進んだが、昭和四十
二年、探鉱の不振、貿易自由化のあおりなどから経営が行き詰ま
って閉山する。
 級友猪狩毅の父も同鉱山勤務で、この朝、ミカン、唐芋などを牧
水らに持たせた。
 この日は宮水で昼食、夜は三田井の旅館田中屋に分宿した。
 九日は、濃い霧の中三田井を出発、赤谷で昼食。このはずれか
ら阿蘇の噴煙が望まれた。
 九日午後は熊本県境越え。同三時、馬見原に着いた。和泉屋に分宿
待遇すこぶる厚い。それで
『馬見原ハシャレタ町ナリ』と日記にほめて
いる。
 十日、浜町泊り。『五郎滝』を見ての帰りに道に迷う。だから
『キタナキ
町ナリ』。

 十一日は御船で第五夜。旅館は松屋。
『キタナキ事浜町二似タリ』
 十二日、午前一時四、五十分ごろの未明立ち。六時には宇土到着。
直ちに大演習地の松橋に向かう。北軍の山部の一番展望がきく所を選
んで見学。
 演習は激越、中学生らは胴ぶるいして観戦した。ここで、念願の明治
天皇のお姿をはるかに拝す。見学後、汽車で熊本に着く。
 十三日は、銀杏城、第五高等学校、水前寺など終日、熊本市内見物。
 十四日は午前四時起床、錬兵場で観兵式を見学。その壮美、筆紙の
尽すところにあらずーと感激最高潮。
 十五日は、陛下のお召し列車を拝し、直ちに出発。阿蘇街道を行進、
三時過ぎに大津に至る。さすがに疲労甚だしい。ハゼの紅葉に全山燃
ゆるようだが、けしきをめでる暇も惜しく旅館の古だたみに横たわる。
 十六日は阿蘇登山。立野から登り、途中、湯の谷で入浴する。頂上に
立ったのが午後二時四十分。天空一点の雲なく、九州の山々と谷、田
園。大阿蘇が贈る錦秋の大パノラマにしばし見ほれる。
 宮地に着いたのが八時十二分。秋の落日は時をかさない。旅館街は
あかあかと灯をともしていた。疲れたからだに山の湯が痛い。
 十七日は、阿蘇神社に参拝、道を豊後路にとる。午後四時、竹田到
着。牧水らの宿は国東屋。町の家並みは電灯が多くにぎやかだ。
 十八日は午後二時半、三重に着く。岩畳屋に宿る。十九日は、いよい
よ三国峠越え。『諸州望見すべし』と山頂の景観を楽しむ。付近に西南
の役の戦死者の墓があり、合掌する。飯肥出身者と記してあった。
 三時に重岡。旭館に泊る。臼杵中学の生徒も同宿、やっと身を横たえ
る窮屈さ。
 二十日、いよいよ延岡帰着の日。午前一時に宿を出る。北川の熊田
で昼食、和田越えまで思いがけず東海の有志家が出迎えてくれ、薬な
どを贈ってくれた。感謝しきり。
 学校に着いたのが午後五時。校長の訓示があってようやく綿のような
身を家に運ぶ。
 行進中は各隊ごとに軍歌をうたった。牧水の第四分隊では彼が即興
の詩を朗吟して軍歌に代えた。それが首尾一貫しているから隊員たち
は感嘆した。東郷の高森為市は一年生。第四分隊の一人だった。牧水
の詩と美声に元気づけられた−と後に回顧する。
白    雨
(4p目/10pの内)








挿画 児玉悦夫
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