第 3 週 平成19年12月16日(日)〜22日(土) 

第4週の掲載予定日・・・平成19年12月23日(日)

 峡 の お く に
  
(9p目/10pの内)










    挿画 児玉悦夫
  祖父母と父母を駆け足で紹介した。まだ牧水が幼いうちに三人の姉
 たちにも登場願う。
  長姉スエは二十歳近く年長“て、牧水が二つか三つのころ、都農町
 で米穀類や肥料を商っていた河野佐太郎に嫁いでいる。河野夫妻に
 は子供がなく、年齢も親子はど違っているので、姉夫婦と弟と言うよ
 り、子供のようにかわいがってもらった。
  のちの牧水の東京遊学も河野の庇護があってのことだった。その間
 の事情はおいおいふれることになる。
 牧水もまた幼少年、学生時代、名を成した
  のちもたびたび同家を訪れている。
  余談になるが、同町の国鉄都農駅前に牧水歌碑がある。全国の歌
 碑のうち三十二番目の建立で、三十六年七月二十八日に除幕してい
 る。歌は、坪谷の生家裏と同じでふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋
 もかすみのたなびきてをり碑石は尾鈴山麓から運んだもので高さ
 三・一b、厚み一・言出、重さ十三トンもある。
  都農町の人たちに言わせると、この歌は河野方から望む尾鈴山を
 詠んだものだと言う。
  たしかに、坪谷から見える尾鈴は頂上と西側の陵線に過ぎない。
 それに比べると、都農、川南町側からの尾鈴は、長くすそを引いた
 容姿全容がくっきりと望まれる。
  それにこれが同じ尾鈴か、と疑うほど南と北では山の姿が一変
 する。坪谷側は厳しく、都農、川南町側はおだやかである。
  いずれからの尾鈴が歌になったのか。各人各様の感じ方があろう。
  だが、生家裏の巨岩。
  いま歌碑になっている岩に身を横たえてあおいだ尾鈴の山が、歌
 の尾鈴だと私は思う。
  通草をくってしまった。
  河野自身もなかなかの商売人だが、ス工もしっかり者だった。母の
 気性を受け継いだのであろうか。女一人ででも商家を切り回せるほ
 どの才覚があった。
  次姉のトモは反対にもの静かな女性だった。
  とくに読書好きで、古い歴史物や小説、漢籍の類まで手当たりしだ
 いに読んでいた。当時いっぱしの文学少女であった。
  繁の命名の発案者は、あるいは彼女であったかもしれない。牧水
 とは一番気の合った姉であった。延岡市出身の小学教師今西吾郎
 に嫁している。
  末の姉シヅは不幸な女性であった。幼いころ子守りが彼女を背負
 ったまま転んで両方の足を骨折した。このため一生障害の身を生家
 で過ごすことになった。
  牧水とシヅとは比較的年齢も近く、一緒に暮ら す歳月が良かった
 親しみも深かったが、よく姉弟げんかもした。しかし『みなかみ』時代
 の彼をかばったのは彼女だった。

  『おもひでの記』で、牧水は三人の柿をそれぞれにしのんでいる。
 ス工については、彼女よりむしろ夫河野のことを書いている。彼は、
 尾鈴連峰のうちの七曲峠を越えて坪谷にやってきた。土産に必ず
 氷砂糖を持ってきた。
  『繁、こりゃあね。あん七曲峠に落ちちょる石よ。あめえどがー』
 来るたびにそう言って与えた。
  坪谷ではまだ氷砂糖などハイカラなものは見なかった。牧水は幾
 年かそう信じこんでいた。
  白くてあまい石が、そこら中に散らばっている七曲峠。
  『オレもそこに連れてって−』
  せがんでは大人どもを喜ばせた。
  氷砂糖に限らない。西瓜、サトウキビの味を初めてあじあわせて
 くれたのも河野夫妻であった。『うす肯き峡のおく』の坪谷に比べ
 て、都農は比較にならぬほどの文明開化の町であった。
  トモは、牧水の寝床にカヤをつりながら、だれかの美文をくちずさ
 んでいた。その抑揚に富んだ口調を聞きながらうとうとと眠りに落
 ちた。
  子供心にも言いようのない哀愁が感じられた。『後に私が同じく
 そうした読物類を好むようになったのも』この姉の影響であった。
  また、釣りから帰った牧水が何かですねて物置の隅に半日も寝
 転がっていた。だれも手のつけようがない。家人もあとではみん
 な怒ってしまった。その時、こっそりムスビを持ってきてくれたのも
 トモだった。
  シヅには多少意固地なところがあった。牧水が延岡中学校を卒
 業するころまで、朝晩絶え間ないくらい、いさかいの連日だった。
  当時の牧水は、ひがみっぽい姉として、少なからずうとんずると
 ころがあった。
  少年牧水には無理はなかった。だが、『おもひでの記』の年齢
 に達して、姉の不幸に対して私は無知であった、と反省している。
  そして『私は最もこの姉に親しみを感じている』と書いている。
  シヅもまた同じ思いだ。牧水の死後、彼女は周囲の人たちにこ
 う語っている。
  『あれとはよくけんかしたが、すなおでよがんだことのきらいな
 子じゃった。あれが死なずにおりが死ねばよかったつに」幼い牧
 水をとりまく肉親はこうした人たちであった。ひとにはそれぞれの
 特質がある。
  だが、若山家の一族はとりわけ個性の強い人が多かったので
 ないか−。
  牧水の成長につれて新登場する人々もふくめてそう思う。
 さて、牧水を成長させねばならない。
峡 の お く に
  
(10p目/10pの内)











挿画 児玉悦夫
五 本 松 峠
 
(1p目/4pの内)










挿画 児玉悦夫

   牧水が五歳のころ、若山立蔵一家は隣村の西郷村に移った。
 西郷村は東郷町山陰から耳川本流に沿ってさかのぼる。山陰から
 同村の中心地田代までは約十二キロある。
  ついでに、東郷の中心地山陰から田代、富高、美々津、坪谷は三
 里 (約十二`)と言った。実測すれば多少の遠近はあろうが、そう
 大差はない。
  若山家が移住したのは西郷村小川のうち尾沢という小集落。田
 代からほぼ四`。山陰からのコースだと、耳川本流沿いの椎葉街
 道を行き、小川吐から同支流小川に沿って左に折れる。その小川
 の右岸。東、西郷両村境の山山を背後に尾沢の家々がある。
  小川地区は大きい集落ではない。ただ、南郷村の水清谷越えの
 通かこの地区のはば中央を貫いている。・だから辺地のわりには、
 人の往来が多い。
  ここに立蔵が移ったのには理由があった。
  もともとこの地区には牧水が生まれるずっと以前から若山医院出
 張所があった。
  健海、立蔵、純曽のだれかが出張診療にあたった。戸数約百。
  出張所を維持するに足りる患家があった。
  一方、坪谷における若山医院。技術的にも人柄の面でも人望に
 富む立蔵であった。
  だが、常軌を逸した、とも言える事業への傾斜が、医院の経営に
 も、若山家の台所にも暗い影を落としていた。
  おのずと坪谷の空気も立蔵にとって必ずしも快いものではなくな
 っていた。
  それに小川地区からは出張診療ではこころもとない。常設医院
 を望む声が届いていた。
  相方の事情から立蔵は移住に踏み切った。
  一足先に立蔵が移り、幾日かのちに家族が従った。ルートは、
 耳川本流沿いをとらず、直接、坪谷から五本松峠を越す山路をと
 って西郷村に出た。
  当日は、小川からの出迎えと、坪谷から送る人合わせて七、八
 人が同行、早朝に家を出た。幼い牧水は健海時代からの往診用
 の駕籠(かご一にひとり乗せられた。若い衆二人のたくましい肩に
 揺られて山を登った。
  辺境の医者の乗り物は、当時、駕龍か、馬か、人力車だった。
 終戦の翌年、東郷町から小川まで疎開中のM医師を迎えに人力
 車をひいて行った経験がある。素人だから小石もくぼみも容赦は
 しない。患家に着くなり老医師は『ああ、殺されるかと思った`げ
 んなりした声で言った。
  椎葉のS医者は三十年代まで乗馬往診で名をはせていた。
  五本松峠越えでは、若山医院のひとり息子牧水が母や連れを
 てこずらせた。


   若山家にそのころ三毛猫『こま』がいた。牧水がずいぶんかわいがっ
 ていた。峠近くで、 『こまは?、連れて来た?』 と母に聴く。家におい
 てきたと答えると、カンシャク玉が破裂した。あらん限りの大声で泣きわ
 めいた。駕寵から転げ落ちる始末。
  そのまま、山道に泣きながら寝転がって一寸も動かない。どうしても
 連れて来い−ときかない。
  母がなだめすかすがききめはない。とうとう五歳坊主に負けて連れの
 一人が、『こま』を連れに今来た山路を引き返すことになった。
  『だいじょうぶ、連れてくるから先に行っておこう』
  これもきかない。連れて来るまでここで待っていると駕寵に乗らない。
  だれが言ってもむだ。ついに、母マキが半ば泣きながら、連れの人た
 ちにわびを入れてその場で待つことにした。
  険しい山路を相当な時間をかけて『こま』のど到着。連れに行った者、
 つくねんと幼児のカンシャクに付き合わされて待った者。腹の底は煮え
 返る思いだった。
  『こま』を抱いた牧水を乗せて駕寵が地を離れる。かつぐ二人の若者
 は、遅れた時間を取り戻すのと、強情な牧水への腹いせで走りに走る。
  駕寵に乗った体験はないが、想像はつく。
  振り落されないようしがみついているのが精いっぱいだったろう。
   『ーでも私は、がまんにがまんを重ねてついに一声も泣かなかった』
 と、『おもひでの記』に書いている。
  がまんにがまんを重ねたのは、母マキは別に、赤の他人の連れで
 あった。
  幼いころの牧水の強情ぶりはまだある。
  小川に移ってからのある日。村の有志に藤田丑五郎という人がいた。
  正月前後のころであった。ひとり田んぼでタコあげを楽しんでいる牧水
 に、通りがかりの丑五郎がご愛想に手伝った。
  ところが、運悪く、彼があげてくれたタコが宙返りをすると水田の水た
 まりにざんぶと突っ込んだ。
  さあ、牧水のカンシャクが起きた。泣きながら、小さいコブシで丑五郎
 に打ってかかって止めようがない。いくらあやまってもなぐりかかる手を
 ゆるめない。
  持て余しているところへ母がとんできてようやくおさまった。
  丑五郎はしげしげと牧水の顔を見て母マキに言った。
  『この子はえらくなれば大したものだ。間違って悪くなればそれもタダ
 ではすむまい`
  母も返す言葉がなかった。
五 本 松 峠
 
(2p目/4pの内)










挿画 児玉悦夫
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