第 32 週 平成20年7月6日(日)〜平成20年7月12日(土) 

第33週の掲載予定日・・・平成20年7月13日(日)

大学かいわい
(3p目/10pの内)




 挿画 児玉悦夫
 十月初めに埼玉の若山古左衛門から手紙が届いた。
 もう寄る年波だ。ながくはないと思うので 一度、暇を見つけて遊びにきてくれないか。文字の数は少ないが、血肉を恋うる情をこもごもつづった文面だった。 すぐにでも行きたかったが、手もと不如意でままにならない。坪谷からの送金を待つうちに十月もなかばになってしまった。
 数日前には、八月の萬朝報に歌を投稿した賞金五十銭も入っていた。あいにくの曇天だったが、思い切ってたずねることにした。
 所沢駅から二里ほどの道程は、四月にたずねたおりと同じように田園とくぬぎの林の中の道を歩いていった。
 神米金村の若山家をたずねたが、久三郎だけいて、肝心の古左衛門は所沢の親類の家に行って不在だと言う。
  『一昨日、手紙を出していたけど−』
 がっかりしたが、久三郎は
  『いや、あんたが来ることは知っているから帰ってくるよ。まあ、今夜はゆっくり泊っていって−』
 とあわてない。
 その通り、男の子が使いに走ってほどなく古左衛門は帰ってきた。
  『もうながくはあるまい』
 手紙の文面から考えてきたようすはみじんもない。顔いっぱいしわにした笑い顔は元気なものだった。
 その夜はおそくまで起きていて話がつきなかった。転地の話をすれば、吉左衛門は、玉川まて行かずとも、こちらにくれば懇意な医者もいたものを、と本気で腹を立てている口ぶりでなじった。
 四月に初めてたずねたおりよりもいっそう家族が打ちとけていた。
 翌日はとうとう雨になった。
 古左衛門や久三郎らはもうー晩泊れ−としきりにすすめるが、そうもしておれない。
 昼過ぎまていて帰ることにした。
 吉左衛門は『繁よ、もうこれが今生の別れじゃろうよ』。涙ぐんで駅まで送って行くときかない。
 二里の道を二人で歩いて所沢に行った。そこには昨日、吉左衛門がいた久三郎の妹の嫁ぎ先、倉片佐次郎の家がある。あらかじめ古左衛門がいっていたらしい。
 誘われて寄ったら食事の用意がしてあった。倉片も酒を好むらしい。
  『雨も降ることだしー』
 盃をさしながらここでも泊っていけ、とすすめられた。
 明るいうちに帰京のつもりが夜に入った。老いた古左衛門との別れがつらかった。
  所沢駅前の郵便ポストに玉川村の内田もよあての手紙を投函した。
 昨夜、若山家の人たちとの語り合いが終わったあと、寝床に入ってしたためたものだ。
 神米金村に来る数日前、もよの母が牛込の下宿清致館をたずねてきた。もよの姉のむこの葬儀があってきたという。もともとがらだが弱いともよから聞いてはいたが、突然のことで牧水も驚いた。
 もよは、姉を助けて葬儀のあと始末をしているから、代わりにちょっと顔を出した。もよの母はそう言って、玄関先の立ち話だけであわただしく帰って行った。 その悔やみもあるし、埼玉の若山家に泊って一夜、思うこともあった。
 追伸に即興の歌を二首添えた。

 憂かりける秋は去にけりなみだ知る人にわかれし朝ここちかな
 秋霧やみだれ八千草みだれ髪野分のあさのひとうつくしき

 玉川村での療養の日々と、つい先だっての来訪を思い合わせて詠んだ歌であった。
 牧水の歌の底に秘めた心をもよがよみとってくれるか否か−。それはそれとしてわが思いの流れ出ずるままを三十一文字に凝縮した。
 牛込に帰ってからは若山古左衛門あての手紙を書いた。
 昨夜のことを、坪谷の父母にくわしく伝えます、としたためたあとに一首加えた

 野はづれや草にうもるる朽橋を狐ゆく見ゆ水さむきあさ

 神米金村の若山家に泊った翌朝。きのう元気よく所沢まで祖父古左衛門をむかえに行った孫の諏訪太郎の案内で付近を歩いた。
 諏訪太郎は、古左衛門から聞いたものだろう。小さい土橋にまつわる村の伝説をたどたどしい口調で語ってくれた。
 村人に助けられた母子狐が、恩返しに橋を架けてくれたーと言う。どこにでもある物語りであった。牧水が感心したふりをすれば諏訪太郎は『まだまだ知ってる』と、得意気であった。
 この歌の意味を諏訪太郎が理解できるわけはないが、古左衛門はあるいは察してくれるかもしれない。
 今生の別れ、と涙ぐんでいた吉左衛門。電灯がいやに明るく見えた駅舎にぽつんと立って見送った老いた彼にー首おくりたかった。
 そんな思いの手紙をしたためおえたところに清致館の下働きのおハ重がやってきた。
 日ごろ快活な彼女がかしこまって言う。
  『−きょう限りでやめさせてもらうことになりました。おいおい寒くなりますが、若山さん、どうぞからだに気をつけてー』。
 涙ぐんであいさつをしていった。
大学かいわい
(4p目/10pの内)




 挿画  児玉悦夫
大学かいわい
(5p目/10pの内)





挿画 児玉悦夫
 十月に入って二十五日までの間、晴れたのはわずかに五日間だけ。連日、曇りか雨、それも台風まがいの大雨に見舞われて陰うつな毎日だった。    そのうちのある曇り日の午後。家にこもってばかりではいっそう気も滅入るばかりと北原、中林と三人で上野に出た。
 だれの発案だったか、一緒に写真を撮ることになった。
  『蘇水(中林)、射水(北原)、それにわれは牧水。早稲田の三水そろい踏みだよ』
 わけもなくはしゃいでレンズの前でかしこまった。
 二十日の夕方、北原と写真を受け取りに行った。三人三様にとりすましている。だが、牧水は太目、射水はやせすぎて老人くさい。ひとり蘇水だけが超然とあっぱれ若き詩人の面影を伝えている。
  『こりゃあ、中林君に全額払ってもらおうや』
 冗談は言ったが、牧水、射水とも写真の出来に失望したわけじゃない。いい記念になるよ、と喜んでいた。
 その写真を持って玉川村の内田家をたずねた。三十日のことだ。
 この日も朝からどんより厚い雲が秋の空をおおっていた。降りはすまいと勝手に予想して海野を誘って出かけた。
 途中で買った稲荷ずしの包みをステッキの先に結びつけて肩にかついだ。武蔵野の中の道を歩いて行ったが、暑からず、さりとてまだ寒くもない。汗ばみもしなかった。
 ちょうど正午になった。内田家に案内をこえば、突然のことに驚いてもよが飛び出てきた。
 老いた両親も二人の来訪を心から歓迎しているようすだった。海野も、牧水がここに滞在中見舞いにきて幾日かやっかいになっている。遠慮はなかった すぐに台所に立ってもてなしの仕度をするもよの後姿が浮き浮きしていた。牧水は坪谷の実家にでもかえったようなくつろぎと、坪谷の家にはない華やいだものを感じていた。
 心通う女性がわがためにいそいそと立ち働く仕草。その一つ一つが男の心を豊かにする。かなりの期間、信州でそうした暮らしをしてきた親友海野にはよく理解できるはず。
 そう思ってかたえの海野をみたが、彼は甘党。出された草もちに早くも手を出していた。
 丘のふもとのもよの次兄の家にも顔を出したので帰りは午後六時を過ぎた 空は気づかぬ間に晴れてきていた。田園と黒々とした木立をわたってくる夕風が少々肌に寒かった。
 持って行った写真を、もよは『だいじにします』とすぐにしまってくれた。 
  玉川村から帰ったら部屋の机の上に封書が二通置いてあった。
 一通は坪谷からで為替が同封してあった。一通は神米金村の若山吉左衛門からであった。心ふくらむ思いがいよいよました。
 早速したためるもよへの礼状にもその思いが及んで、弾むペンを抑えようがなかった。
 きのうの陽気がうそのように翌朝は急に冷え込んだ。二階の窓をあけると、どの家の屋根も霜で白い。十月も終わりである。
 庭に出ると井戸端に置いた洗面器に薄氷まではっていた。
 あわててその日の午後、神楽坂まで出かけて冬物のシャツを求めてきた。
 十一月二日は、ちょっとした騒ぎに巻き込まれた。
 北原に誘われてその夕方、神田美土代町の青年会館で聞かれた社会主義大演説会を聞きに行った。
 演説今は最初から臨席の警官が中止を速発して荒れ模様になった。弁士二人はそれでもようよう演説を終わったが、三人目の幸徳秋水の登壇になって頂点に達した。
  『中止』の警官の声を聞こえぬげに秋水がいっそう声をはりあげたため、ついに『解散』を命じた。
 これに満場の聴衆が激高して『警官横暴』を口々に叫んで総立ちになる。『解散』を連呼 して会場から人々を押し出そうとする数十人の警官。踏みとどまろうとあらがう聴衆。大混乱になった。
 サーベルのつかを握ってステージから何やらしったしている警察署長の声も、聴衆の怒号に消されて耳に届かない。
 牧水らは、はじめはおもしろがっていたが、飛ばっちりを受けてはかなわんと館外に逃れ出た。
 二人とも初めての経験だった。驚きはしたが、弁士、警官、どちらに本気で加担するわけでもない。
 途中、焼き芋を買って食いながら帰った。下宿に着いたのは午後十時すぎ。そのまま眠ってしまった。
 こんな事件もあったが、学校の方はまあ真面目に通っている。それも、坪内逍遥の講義にひかれてのことではあったがー。
 鹿児島遊士館に入学している平賀(春郊)にそう伝えている。
  『−興味あるのは(略)坪内さんの文学談倫理くらいのもの。目下イブセンの評釈で、教壇の上で手を振り足を踊らし『水ももらさぬ仲じゃもの』なんてぐあいで、あの大教場も破れんばかりの人に候』。
 中央公論十一月号の歌壇冒頭に牧水の歌十一首が掲載されていた。


   つづき 第33週の掲載予定日・・・平成20年7月13日(日)
大学かいわい
(6p目/10pの内)





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