第 36 週 平成20年8月3日(日)〜平成20年8月9日(土) 

第37週の掲載予定日・・・平成20年8月10日(日)

車前草社
(9p目/9pの内)




 挿画 児玉悦夫
 奨学金を借りることができなくなった分をどこかで工面しなければならない。  河野以外にその余力がある親類といえば神戸の長田をおいてない。牧水からは言い出せないでいたが、血縁をたのみに母マキが頼んだ。ところがこれも断わられた。
 坪谷からも長田からも何ともいってこないが、美々津の福田家に嫁している米子からの便りでそれを知った。
 叔父は、『女房の手前、こんなことを坪谷から言ってこられては肉親として赤面する』といってきたそうだ。
 子供の多い今西はその気はあってもとても無理だ。だから夏休みの終わりに会ったときも、奨学金借り入れの相談だけにとどめた。
 しかし、一応は頼んでみるつもりだ。
 一方、出費の方は容赦ない。予科では二円八十銭だった授業料が本科では三円二十銭になった。教科書も全部そろえれば十四、五円はかかる。とても手に負えないので半分そろえて、あとは友人のを借り読みして間に合わせている始末だ。
 どうにもならないので、当面、不必要な着物は入質してしまった。羽織など毎日着たきりすずめの状態だ。
 それで近頃は、学校から帰って夜、近所の子供たちに英語と読書を教えている。月一円ほどになるが、このためゆっくり夕食をとる時間もない。
 くじけそうになる心の支えはただ、
 『−及ぶ限りは送金を続けるから安心して勉強をするように−』
 言ってくれる坪谷の両親の温情だ。
 『血を吐くような思い』で送る毎日の窮状と、いまの心境を長々書きしるしたあとで、
 『もう追々鳩や雉子のとれる頃と存じられ候。御功名御聞かせ下されたく候。姉さまに今年の正月あたりには坪谷に行って、私に代って老親を慰めて下さいと言って下されたく候』
 こう結んだ。授業料や教科書で月々の経費がふえているのを知りながら、佐太郎は十月も三円しか送ってくれなかった。
 うらめしく思っても都農以外にたよるところはない。ひたすら彼の情にすがるはかはなかった。
 そのころ広島市の官庁に勤めていた延中同期の大見達也にハガキを出している。
 『−約廿円の月給どりは偉い。今はほんとうにエム問題が第一だね。主義も詩歌も学問もあったもんじゃない。僕は寧ろ自身の小野心家なりしを悔いて居ます』
 十四、五円の送金に泣いている自分に引きかえ、大見は月給二十円をもらって自立している。じくじたる思いが牧水にはあった。
  牧水の窮情を訴える手紙に河野佐太郎もいたく心を動かした。十二月初めのいつもの送金がこれまでの三円から五円に増額してあった。
 佐太郎からの手紙には、坪谷の両親にはこれ以上無心はせぬように。その分、こちらで算段してみよう。ただ、生活が苦しいからといって、勉強を怠るようでは元も子もない。
 好きな酒の量も減らして送金している父親のためにもこれまで以上に勉強に励ん“てもらいたい。これは、商売の資金を削ってでもなんとかしようと思っている我々夫婦にしても同じことだ。決してあり余って送っているのでないことだけは、忘れないでもらいたい。
 簡潔な文面だが、義弟を思う佐太郎と姉ス工の真情があふれていた。
 この手紙より前、神戸の長田からも幾ばくかの送金があっていた。叔母に気を使ったものであろう。礼状はいらない。その分しっかり勉強して、坪谷の老母を安心させてほしいーとあった。
 『今日は朝から雨がふってゐてまことにさびしい日でありました。ところへ兄上様よりのお手紙がとどきましたので急いであけて読みました。読んでゆくうちに何かうれしいやうな悲しいやうな気になって、眼のうちにはもうなみだがいっぱいで御ざいました。
 ほんとに私はもう御礼の申しあげやうもありません。これほど私を思って下さるかと思ふと何とも言へぬ気になってただ泣きたくなるばかりです。(中略)   御恵送の金五円、すぐ飛んで行って受取って来ました。ほんとにどんなにうれしう御ざいましたろう』
 十一月には三円だけの送金だった。少々うらめしく思った義兄であった。神戸の叔父も『(叔母に)赤面する』と言っていた。しかし、いよいよとなれば血のつながりは濃い。牧水を見捨てはしなかった。
 それは、牧水自身が、故郷の実情をよく知っていて質素に質素にと心掛けていることが彼らに伝わったからだった。
 都農からの送金“て翌日すぐに授業料を収めた。十一月分はすでに収めていたのでその領収書を同封した。今後は毎月義兄あてに送ることにした。けじめをだいじにするためだ。
 長い手紙をこう結んだ。
 『いつでもよろしう御ざいますが兄上様の御写真を一まい下さいませんか、新しいのを』
 真実、佐太郎をなつかしんでのことだった。
『現金だな、繁は』佐太郎とス工が顔を見合わせて苦笑するなど毛筋ほども懸念しなかった。
 十二月十一日朝、この手紙を投函した。
武 蔵 野
(1p目/13pの内)




 挿画  児玉悦夫
武 蔵 野
(2p目/13pの内)





挿画 児玉悦夫
三十八年一月盲、慮軍の旅順守備軍の司令官ステッセルが開城を申し出、全国をわき立たせた日露戦争もこの年の九月五日、日露講和条約が締結された。
 旅順陥落後、増強された日本軍と、欧州からの増援を得た露軍が三月、奉天付近で大会戦したが、兵力の劣る日本軍が勝利を収め十日に奉天、十六日に鉄嶺を占領した。
 さらに五月二十七、八日には、欧州から戦況挽回のため回航された露海軍のバルチック艦隊を東郷平八郎大将がひきいる連合艦隊が対馬海峡で捕促、壊滅的な打撃を与えた。
 旅順に続く奉天会戦、日本海海戦の大勝利は、将兵と国民の士気をいやがうえにも高揚させた。
 しかし、日本の内情は戦況とは別に苦境に立たされていた。戦費調達のための増税と国債は極限に達していた。特に国債は英、米資本の援助による外債でまかなわれていたがこれも限度を超えている。
 このため兵力と軍儒品は底をつき、戦線が満州の北に伸びるにつれて補給も困難になっていた。
 一方、露国の国内事情も窮迫していた。革命運動、労働者の政治的ストライキ、農民のほう起、軍隊の反乱が相次ぎ、蜂の巣をつついたような状態だった。
 露陸軍の総兵力の僅か六分の一を戦場に送っただけなのに、革命を恐れる後顧のうれい″から戦争継続の能力を失っていた。
 この両国の態勢を見て米国が、相方に講和を勧告した。両国にとってこの勧告は時の氏神″だった。
 勧告を受諾して八月から米国ポーツマスで講和会議が開かれた。日本全権は飯肥(日南市)出身の小村寿太郎、露国の全権はウィッテである。
 会議は八月十日から始まったが、難航を予想した米大統領が二十二日、講和実現のため日本は金銭的要求を放棄するよう金子堅太郎特使に勧告した。これを受けて二十八日、御前会議は、『償金、割地の要求を放棄してでも講和を成立させる』方針を決議した。
 これに対して、大阪朝日新聞が九月一日付紙面に社説『天皇陛下に和議の破棄を命じ給わんことを請い奉る』を掲載したのをはじめ『国民新聞』を除く有力紙の多くが条約反対のキャンペーンをはった。
 九月三日には大阪市公会堂で市民大会を開き戦争継続、講和条約破棄を決議した。この火の手は東京はじめ各地に広がり、暴動が続発した。
 日比谷焼打事件(九月五日) のあと神戸、横浜でも焼打ちがあった。
 
  牧水も日比谷焼打ちの騒動を佐太郎あての九月六日付けの手紙で知らせている。
 『−到着早々、東京は大騒ぎにて警察の力で足らず兵隊をくり出して剣を抜く やら鉄砲を打つやらの最中に候こととて末だ宿もきめられず大にまごつき居り 候』
 近衛篤麿、頭山満、河野広中らが講和問題同志連合会の名で開いた講和条約反対国民大会に参加した民衆は数万。会場の東京日比谷公園はあふれんばかりだった。
 主催者のアジ演説に興奮した群衆は自然発生的に暴徒化し、内務大臣官邸、全市の警察署、交番、政府の御用新聞とみられた徳富蘇峰の国民新聞社、市街電車が焼打ちされた。
 この事件による負傷者は、民衆側の死亡十七人をふくめて警察、民衆それぞれ五百人に達した。翌六日には、戒厳令が一部地区で発令きれ、近衛兵の出動をみてようやく鎮静化した。
 また政府は、治安妨害を理由に条約反対の論陣をはっていた大阪朝日、東京朝日、万朝報、報知などの各新聞の発行を禁止した。
 こうした流血をみるに至った大混乱のうちに講和条約は五日調印され、同十六日に戦いは終わった。日本が得たものは、サハリン(樺太)の南半分の領土と、旅順、大連の租借権、南満州鉄道だった。
 これに対する両国の戦争による犠牲は、日本側が死者廃疾者十一万八千人、艦船の喪失九十一隻、軍費十五億二千三百二十一万円に達した。
 一方、露国側の損害は、死者十一万五千人、艦船九十八隻、軍費約二十二億円に及んだ。
 十月二十三日、日本海海戦で全世界に勇名をとどろかせた日本海軍の観艦式が東京湾で行なわれた。参加艦艇二百隻、観衆数万人が日の丸の小旗を振って歓呼した。
 ただし、東京市及び府下五郡に適用された戒厳令は翌月二十九日になってようやく廃止された。多大の犠牲を生んだ日露戦争の傷跡はそれほど深いものであった。
 かくて三十八年は暮れる。
 この年に牧水が雑誌に発表した歌は、『中央公論』が一月号から四月号に二十五首、『新声』が、復活した二月号から十二月号までに七十二首に及んでいる。
 『新声』十二月号に掲載された歌

 秋さむや萩に照る日をなつかしみ照らされに出し朝の人かな

 は、後に改作されて

 朝寒や萩に照る日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと

 として第一歌集『海の声』に収録されている。このころ文壇に台頭してきた自然主義の傾向がほのみえる歌が多くなっている。


   つづき 第37週の掲載予定日・・・平成20年8月10日(日)

武 蔵 野
(3p目/13pの内)





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