第 38 週 平成20年8月17日(日)〜平成20年8月23日(土)
第39週の掲載予定日・・・平成20年8月24日(日)
武 蔵 野 (8p目/13pの内) 挿画 児玉悦夫 |
娘の母親から下宿先の主人を通して物言いがついた。 娘はまだこれから家事や諸芸を学ばせばならない年齢だし、日高もまだ学生だ。お互い将来にキズがつきかねないので、この際交際をやめてもらいたい。 娘には私から厳しく言いきかせて納得させたので、日高にはご主人からとくと注意してもらいたい。こういう話だった。 若者同士のことだからー。知人はそう思ったが、隣家の母親のあまりの剣幕に承知せざるを得なかった。 『いまは勉強が第一。細島の両親には内緒にしておくから交際はあきらめなさい』。 知人にいましめられて帰ってきたという。 日高の話を聞きおわって牧水の胸も痛んだ。彼ほどの恋の経験はないが、好ましく心に描いた女性はいた。日高の悩みはわかる。 『園肋やん。そんな馬鹿な話があるもんか。本人同士が一番だよ。おれが神戸に行ってその母親に会って談判してやるよ』 同情がたちまち義憤に変わった。日高の方が驚いて止めたが、牧水はいったん言い出したらあとに引かない気性だ。 同級生間では世話好きで通っているし、親分肌のところも大いにある。 折角細島港まで帰り着きながらそのまま次の便船で神戸に折り返した。 母親に無理に面会を求めて談判した。東京仕込みの恋愛至上主義みたいなことを自分では滔滔として述べたつもりだが、相手は微動だにしない。 『j日高さんのお気持も、あなたがおっしゃることもありがたいこととは思いますが、私どもには私どもの考えがございます。娘ももうその気はない、と言っておりますのでこれまでのことはきれいに水に流してほしい。日高さんには、親友のあなたからよく言い聞かせてあげて、若気のあやまちを起こさないようにさせてください』。 かえって牧水が日高の説得を頼まれる始末で終わってしまった。 初めの意気けんこうはとこへやら帰りはすっかり自己嫌悪に陥っていた。甲板に出て海風に吹かれても気は重かった。 日高も牧水の談判が成功すると信じていたわけじゃない。それでもいちるの望みを託していたものか、牧水が不首尾をわびると、 『いいよ、いいよ。繁ちゃん。おれも男じゃが。きっぱりあきらめるが』 強がりを言いながらも肩を落としていた。 牧水にはまことに不本意な神戸往復の船旅であった。 だが、人間の出会いとは不思議なものである。この日彼は終生忘れ得ぬ人に会っていた。 |
日高の初恋の女性は赤坂古六の長女でカヨといった。古六には兄大介がいて、彼には明治十五年九月十七日生まれの長女がいた。 彼女は同三十三年六月三日に広島県沼隈郡鞆町宇鞆三〇四の園田直三郎と結婚した。二人の間には富子、栄枝の二人の娘が生まれていた。 彼女は町ては一番の美人でそのうえ働き者で通っていた。直三郎は美人の妻より三歳上、鞆では名を知られた鉄工関係の店『鍬良』の若主人。二人の仲は評判になるくらいむつまじかった。 だが、好事魔多しで、働き者の若妻が胸を病んだ。重症というほどはないのだが、不治の病といわれた当時の肺結核。 家族への伝染を恐れて須磨の療養所にひとり転地療養することになった。 一日中ベッドにいなければならないというほどのことではない。ときおり神戸の叔父吉六の家に遊びにきていた。 牧水がいきせき切って赤坂家を訪れた日も彼女がたずねていた。その日はちょっとした相談事があってたずねたのだった。 用件もすんだので座を立とうとしたところに来客があった。聞くともなしに耳に入った話だと、従妹のカヨのことらしい。 ついそのまま立ちかけた腰をおろして小一時間ほど帰りをのばしてしまった。だが、叔父の家とは言え他人様の内情。立ち入ることでもないので素知らぬ顔でいとました。 廊下からふと部屋をのぞくと、学生服の小柄な若者が正座している。横顔がひどく緊張して見えた。 ただそれだけの印象で帰って行った。 その不治の病を養う若妻の名を園田小枝子と言った。 カヨの母親に涙まじりに談じ込んでいる牧水だ。足音をしのばせて廊下を通り過ぎた人があるなど気付くわけはない。 ましてや、その人が鞆町小町とうたわれた美貌の女性であることなど知るよしも無論なかった。 だが、この一瞬に牧水と小枝子の縁の糸は二人のあずかり知らぬ所でしっかと結ばれていたことになる。 −細島に再度帰った牧水は、ここで鹿児島の造士館(七高)に在学している平賀財蔵に会った。彼も牧水に会うためわざわざ日高の家まで来ていたものだ。 二人は、日高の親類で細島から東京の女子大に行っている日高ひでを紹介され、三人で細島港から御鉾が浦にかけての海辺を歩いた。 さすがに園肋を誘うわけにはいかなかった。 ひでも詩、短歌を作る文学好きの娘だった。三人には楽しい半日になった。 |
武 蔵 野 (9p目/13pの内) 挿画 児玉悦夫 |
武 蔵 野 (10p目/13pの内) 挿画 児玉悦夫 |
日高ひでは牧水にとって新しい時代の女性との出会いになった。 その日のうちに坪谷に帰りついたが、病んでいるのは牧水だけでなかった。母マキもーカ月近く体調をくずして寝たり起きたりの状態。もともと足が不自由な姉シヅも気分がよくないらしい。 元気なのは老父立蔵ひとり。夏休みになるのを待ちきれずに帰った故郷だが、家の中が暗かった。帰る早々気が滅入ってならなかった。 『磯の日、あゝ思ひ出おほき日ならずや、こゝろかの日を想ふごとに何処ともなくほのかに松の嵐、波のひびきの通ふを覚ゆ。あゝ思ひ出おほき日ならずや。 故郷は何となく凄愴の面影を帯び居り候 (中略)母久しく病床に在り、姉もつつがありて寝食安からず、自分の身も亦健かならざるに於てをや。あゝ日向はあまりに静かなり、みどりなり、さは思ぼさずや。 僅か半日なりしかど、かの磯の日の恋しく候。雨を見、谷をきいてこゝろ更にあこがれ申し候。 海の声ほのかにきこゆ磯の日のありしをおもふそのこひしさに 物がたり磯の夏樹の花かげに涼しかりにし日をおもふかな(後略)』。 七月十日、延岡の平賀財蔵に細島の海岸を三人で散策した日の感激を伝える手紙を出した。磯の日の主役は言うまでもなく女子大生日高ひでであった。 彼女は細島の富裕の旧家の娘である。おっとりとした性格らしく話しぶりも明るくこだわりがなかった。 だが、ふとしたおりに何とはなしの寂しさを垣間見させた。そのかげりが横顔に走るのを牧水は見透かさなかった。 その理由を後日牧水は知ることになる。そう遠くないうちに彼女との永遠の別れの日がおとずれるのだ。 七月中旬に延岡に出てみた。中学同期の友人たちも帰省していよう。彼らと会えば坪谷での憂うつもまぎらせそうに思った。 だが、延岡も牧水の病む身体と沈潜する心を慰やしてくれる土地ではなくなっていた。 『−逃ぐるが如く延岡を去れり。さぞいぶかしくや君の眼に映じけむ。延岡は既に吾身にとって昔のままの平和な故郷てはなくなっていた。延岡は世のいわゆる『故郷』である。花袋の描いた『故郷』である。零落の子が常に呪阻の眼を以て見る『故郷』である。多恨の身、久しく止るに耐えなかった』 七月二十日は延岡の馬車宿から、翌日は坪谷に帰りついて同じ意味の手紙を平賀に出している。 彼の故郷はやはり父母のもとであった。 |
延岡についで八月一日から一週間ほど都農の河野佐太郎方に行っていた。帰郷のあいさつのほかに相談事があった。 牧水も帰郷してから知ったことだが、母マキが床に伏していたのは、病気のせいだけではなかった。父立蔵の“持病”が出てまた鉱山で失敗。若山家の経済は二進も三進もゆかなくなっていた。 当面、金銭的に片をつけねばならぬ切迫した問題もある。貯えとてあるはずがないので、祖父健海が長年の間に手に入れた山林を売るほかはなかった。 彼の延岡行きはその売買の交渉も兼ねていた。結局、山林業者に足元を見られて予想をかなり下回る値段で手放すことになった。 腹立たしいがいたしかたない。牧水の話を聞いた佐太郎、スエの夫妻も苦り切っていたが、これも後のまつり。 『財産を食いつぶしてしまわない限り、あの病気は洽らないよ』。 佐太郎が吐きすてるように言った。食いつぶす財産もほとんどないことを知っている牧水は黙って唇をかんでいた。 都農から帰ってその月の二十三日、山林業者が若山家を訪れて売買契約書に調印した。 現金を手にした立蔵の眼はうつろであった。この金は右から左ヘー。探鉱費用の穴埋めに消える金だ。 その夜、立蔵と牧水は焼酎をしたたかにあふった。牧水が上京して以来、立蔵の晩酌は好きな清酒から焼酎にかわっていた。 黙って盃をくみかわす父子の間に言葉はなかった。牧水の胸中には悲哀とともに怒りがふつふつとたぎっている。一言、口火を切れば煮えたぎるものがー気にふき出るだろう。 牧水はそれに耐えて盃をむやみと口に運んだ。立蔵もまた自らの俯甲斐なさに泣いていた。母マキとシヅは次の間で早くから横になっていた。家全体がすっぽり暗い奈落の底にあった。 その翌日、牧水は二階の部屋からふらつく足を踏みしめて階段を降りる途中、気を失って転倒した。 そのうえ、息子の手当てをしていた立蔵までが吐気と発熱に襲われて倒れてしまった。 夕方からは父子枕を並べてしんぎんする始末であった。 その看病にあたる母マキも病気。暗たんたる有様だった。 知らせを受けて山陰から叔父の医師純曽が駆けつけたのは翌朝来明であった。富高からも医師を招いた。 立蔵が肺炎、牧水は脳炎という診断だった。都農の長姉スエと河内の次姉トモも急を聞いて枕元に集まる騒ぎになった。 つづき 第39週の掲載予定日・・・平成20年8月24日(日) |
武 蔵 野 (11p目/13pの内) 挿画 児玉悦夫 |