第 42 週 平成20年9月14日(日)〜平成20年9月20日(土)
第43週の掲載予定日・・・平成20年9月21日(日)
閑 話 (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
園田小枝子は、病気療養のため家を出て須磨に移っていた。もともと重病ということでもなかったので日にちを薬にめきめき快方に向かった。 その一方で、叔父の赤坂吉六方などをたずねるうちにいろんな人たちと知り合った。若くして結婚したため彼女は二十四歳ですでに二人の子持ちだ。 だが、同年齢で学問やけいこ事に励んでいる娘たちは多い。小学校もようやく出たほどの学歴しかない彼女だが、幼いころから勉強はきらいでなかった。 まわりの刺激を受けて何か身につくものを学びたい。そんな思いがつのっていた。 それに夫直三郎とは性格的に合わないところがあった。姑や小姑との関係もうまくいっていない。 家庭から解放された気ままな暮らしを送っているうちに、鞆町の婚家に帰ることがわずらわしくなった。一歩、勇気を持って踏み出せばまだ私は若い。別な世界が持っているのじゃないかー。 空想がいつか、すぐ手を伸ばせばつかむことが出来る現実の世界に思えてきた。従妹のカヨも賛成してくれた。 東京に出て自活しながら勉強する。若く美しい働き者の女房が一大決心をして上京したのだった。 世話好きの牧水に友人日高園助が紹介したのは小枝子にとって適切な措置であった。 だが、牧水にとってはどうだったろう。 その頃、彼は武蔵野歩きに惹かれていた。なけなしの財布をはたいて酒の四合瓶を求め、懐中にして歩いた。そして歩き疲れては飲んだ。 親友平賀春郊に『僕はまた例の野めぐりを始めて、あらゆる手段をつくして集めた金で、歩き、且つ飲むの狂態を尽して来た』と手紙で近況を述べていた。 その中で詠んだ歌がある。 君知るや春の静けさ寂しさのうちをながるるかのささやきを なつかしき春の山かな山裾をわれは旅人君おもひゆく そうしたおりの来訪だ。病後のやつれが残る美女が、寄る辺なき東京に出て来て、自分に保護を求めている。 若い牧水の心が激しく揺れ動いても、無理ないことである。 小枝子は六月十九日、連絡して再度牧水をたずねて来た。牧水は例の如く彼女を武蔵野に案内した。梅雨期の晴れ間の半日だった。 牧水は、その数日前、春郊に『恋ではない』と同行する女性のことを前もって知らせている。書いた文字は彼の心の裏返しでしかなかった。 |
『恋ではない、繰り返す、恋では決してない』と、親友に伝えた小枝子との武蔵野行きは、これまでの野めぐりとは趣が異った。 だいいち、四合瓶を懐中にしていなかった。代わりにふところにあったのは『独歩集』の一冊だけだった。 田畑の中の小径をめぐり、くぬぎ林の中の道を抜けて孟宗竹の防風垣で囲まれた農家の庭に出る。また丘に登り、小川のほとりにたたずんでみる。 その道すがら独歩の『武蔵野』を彼女に語って聞かせた。小枝子には縁遠い話題だが、牧水はそれに気付かない。小枝子もまた、わからぬながら、牧水の説明のひとつひとつにうなずいていた。 彼の深みのある声音が肌からじかに胸にしみ入るようだった。 その三日後の二十二日、牧水は直井敬三、土岐湖友と連れ立って夏休みの帰省の途についた。 直井は延岡に帰るのだが、土岐には事情があった。彼の父で浅草区松清町の真宗大谷派等光寺の住職土岐善静が前年死亡した。遺骨を京都の本山に納めることになった。 長男がいるのだが、二男の湖友がその役目を引き受けた。牧水らと京都までの旅を楽しむためだった。 汽車のなかで、牧水は園田小枝子のことを話題にした。 『いや、話を聞くとね。実に哀れな運命の女性なんだよ。その苦境から抜け出すために神戸からたった一人上京してきたんだ。僕としても力を借してやらざるを得ないじゃないか。けなげな女性だよ』。 恋したとも愛したとも言わない。だが、だれかに小枝子のことを知ってほしい。その衝動を押さえきるには牧水はまだ若い。 車中、二人と話していても、窓外を走る景色に目を移していても、彼の思いは片時も小枝子から離れなかった。 翌日の朝早く京都七條駅に着いた。延岡中学校の同窓山崎俊一郎が出迎えていた。その足で市外花園村の彼の部屋に落ちついた。 山崎は農家の離れを借りて自炊しながら京都高等蚕絲学校に通っていた。 二十三日から二十六日午後まで、三人は山崎の案内で京都内の神社仏閣、公園を昼夜通しで見て歩いた。 二十六日は西本願寺で土岐と別れた。彼は一人で奈良に足を伸ばした。残った三人はさらに三十三間堂、博物館と欲張って見学、夕方の汽車て牧水、直井は神戸に向かった。 山崎は遅れて帰省すると言う。プラットホームまで見送っていつまでも手を振っていた。 牧水と直井はその夜神戸の叔父方に泊った。 |
閑 話 (2p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
決 意 (1p目/4pの内) 挿画 児玉悦夫 |
牧水と直井敬三はその夜、神戸の叔父長田方に泊った。神戸高商在学中の日高園助にも連絡して来てもらった。 三人の話は、はじめは日高と赤坂カヨとの悲恋物語、そして数日前、牧水が誘って武蔵野を歩いた園田小枝子の身の上に及んだ。 日高の方は、一年の経過が彼の心の傷を癒やしたらしい。牧水と直井が考えたほどの未練は持っていなかった。 それよりも、牧水が小枝子の来訪に快く応待してくれたことをわが事のように喜んだ。彼も彼女に好意を持っている風だった。 直井は、翌日の夜の汽船で細島港に向かった。日高を誘っていたが、彼は孟蘭盆まで神戸にいて勉強する、と殊勝なことを言った。 牧水はひとり別れて陸路、中国路を歩いて九州に渡ることにした。 姫路出身の有本芳水が夏休み前から盛んに中国路の海と山との景観を称揚していた。 『船で神戸と細島の間を往復するだけじゃ芸がないよ。瀬戸内海沿岸と中国山脈の間を走る山陽道の美を知らずして山紫水明を語る資格はないよ』 彼の勧誘と、牧水自身一度は通ってみたいと考えていた道筋なので、思い切って陸路をとることにした。 神戸を汽車で立って岡山駅に着いだのが二十九日の夜だった。その夜は駅前の旅館『はつね』に泊った。翌早朝に旅館を出て高梁川をさかのぼって行った。 詰め襟の学生服は着ているが、足ごしらえは脚絆にわらじ。照りつける夏の太陽は容赦なかったが、踏む土の感触が快かった。 渓谷から吹き上げる風が汗ばんだ肌をひやりとさせる。岡山県から広島県への国境を歩いて越えるのだ。 その夜は高梁町に泊った。翌日も朝早くから歩き続けた。七月一日の夜は新見町泊りになった。 あくる日、いよいよ県境にかかる。道は苦坂峠越えの山道になった。夕方になってようやく海抜四百十三bの国境の峠、二本松峠に到達した。 峠にはその名の通り、二本の老松があって備中、備後の山と平野を見渡していた。 その傍に簡易旅館を兼ねた茶店『熊谷屋』があった。その夜は茶店泊りになった。 ここから有本芳水に葉書を出した。 『貴兄のご推奨の景観、余すところなく満喫して国境の峠に立った。その愉快、言うべき言葉なし』 末尾に旅中詠を書き添えた。 幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく 数え年二十三歳の夏の作てある。 |
中国路を旅する牧水からの便りは、その頃はやくも正富汪洋の手に届いていた。岡山県出身の彼に、二十九日夜、岡山駅前旅館『はつね』から絵葉書を出していた。 一樹一草 追憶さはならむ われ今宵 君が故郷に宿る 微雨晴れて また降る 斯る時 旅の愁ひの つきがたき ものぞかなし 一杯を呼び 夢に君と遊ばむ。 岡山、広島、鳥取の三県の国境近くまで行った牧水はそこから下って広島に出て、宮島で遊んだ。さらに山口県下関市に行き、そこでは、同地に最近転勤してきたばかりの大見達也を下宿にたずねた。 大見は近くの小料理屋に一席構えて待っていた。ひと風呂浴びて『うまい魚を食わせる』という店に行った。 延岡中学校当時から年長の人見を兄貴分として立てていた。その彼らしい心使いに牧水は涙がこぼるる思いだった。 何よりも、見知らぬ土地のひとり旅をしてきた牧水には無性に人が恋しかった。 どっと出た疲れもあってかいつもより酒の回りが早かった。 けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれてゆく 峡逢ひてわが汽車走る梅雨晴れの雲さはなれや吉備の山々 いつもふところにしのばせている手帳に書き止めた旅中詠を見せた。大見は役所勤めに追われて、このところ中学時代からの作歌から遠ざかっている。 『牧水君、もう君は僕なんぞの到底手の届かぬところにいっているね』 牧水の歌境の進歩に素直に敬意を表した。それからまた一段と盃の献酬が繁くなった。ついには、二人してどうやって下宿にたどり着いたやら、前後不覚で翌朝を迎えた。 翌日は、大見も勤めを休んでー日部屋でごろごろしていた。関門海峡を見る予定が頭痛しきりでどうにも腰が切れない。 その夜もまた酒になって翌朝ようやくみこしをあげた。 牧水はそのまま門司に渡って九州路を真っ直ぐに南下する計画だった。ところが、前夜、盃をくみかわしながら大見が途中の耶馬渓行きをしきりにすすめる。 耶馬渓の天下の景観は牧水も聞いている。大いに気が動いた。大見はずっと以前にたずねて羅漢寺ふもとの山国屋旅館に泊っている。 『おきよさんと言って、きれいな娘さんがいてね。随分親切にしてもらったよ』 牧水の気をひいた。 つづき 第43週の掲載予定日・・・平成20年9月21日(日) |
決 意 (2p目/4pの内) 挿画 児玉悦夫 |