第 49 週 平成20年11月2日(日)〜平成20年11月8日(土)
第50週の掲載予定日・・・平成20年11月9日(日)
「創作」時代 (4p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
小枝子は従弟の赤坂庸三と同じ下宿屋春木館にいた。庸三は苦学するつもりで上京したのだが思うようにいかない。当時はすでに進学をあきらめて会社に勤めていた。 女児は庸三の世話で里子に出したものだが、養育費は深い関係を続けてきた牧水が当然見なければならない。その金を捻出するための経済的な負担がまずあった。 しかし、それは『創作』の仕事が順調に行きさえすれば片付く問題だ。 牧水の煩悶は別のところにあった。 庸三は小枝子より四歳下。いとこ同士とは言っても若い男と女であることに変わりはなかった。 牧水と小核子との仲は根本の海岸の宿でも隣り合わせの下宿部屋での動静でも知り尽している。 それに秀れた歌人である牧水を敬慕していた。親切な彼を従姉小枝子を真から幸福にしてくれる人だとも考えている。 だが、同じ屋根の下で毎夜を過ごすうちには、美しい小枝子を一人の女性と思う夜もある。若い男として無理からぬことだ。 牧水も二人の生活をみているうちに何か気がかりに感ずるところがあった。恋する男の嗅覚は鋭い。小枝子がどうつくろおうとつくろいきれぬ疑惑が残った。 小枝子にはそんな危うさがあった。 里子に預けた女子の出生にまでその疑惑がまつわりついて離れなかった。 それが、『僕の眼にうつる全てのものを真っ暗』にした。 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり あな寂し酒のしづくを火におとせこの夕暮の部屋匂はせむ 真っ暗な心に無理に灯をともそうと僅かな金銭を握って紅灯の街に出た。そこには酒に乱れ女に溺れる夜が待っていた。 みさをなきをんなのむれにうちまじりなみだながしてわがうたふ歌 かりそめの一夜の妻のなさけさへやむごともなし身にしみわたる あと月のみそかの夜より乱酔の断えし日もなし寝ざめにおもふ 歌人としての名声の裏側に人知れぬ懊悩が続いていた。他人に赤裸々に胸のうちを明かすことが少なかった牧水にとって、その懊悩をまぎらす方途は酒であった。 愛するがゆえに憎む小枝子の面影を打ち消すために『みさをなきおんな』の群れに身を投げることもした。 六月中旬、『別離』の売れ行きがよいのでーと東雲堂がくれた十五円ほどをふところに、山梨県の下部温泉に行った。 |
下部温泉には四、五日滞在しただけで帰京した。身も心も疲労困憊していた。朝夕温泉につかっては酒になる毎日だった。 そして酔った眼に浮かぶのは小枝子の白い顔であった。忘れようとして飲む酒が忘れ去るべき人の面影を誘い出していた。 わが小枝子思ひいづればふくみたる酒のにほひの寂しくあるかな 山々のせまりしあひに流れたる河といふものの寂しくあるかな 帰京後は脳裏に浮かぶ妄想を打ち払って『創作』の編集に専念しようとつとめた。その努力は結実し雑誌の評判は、牧水の名声と共に号を追って高まって行った。 だが、それでも牧水は煩悶の淵から逃れ出ることがてきなかった。夏の終わりの頃には編集を続ける気力も衰え仕事が滞りがちになった。 西村が言葉を尽して気分一新を願ったが結局、八月号までで編集から手を引くことになった。後任には、そのころ神奈川県北下浦の海岸に転地して翻訳の仕事をしていた佐藤緑葉を招いて担当してもらった。 折角、歌人としての地位もそして収入も安定してきたというのに牧水はまた自らそれを捨てる。小枝子とその周辺が彼に加えた心の傷はそれほどに深かった。 九月二日からまた旅に出た。小枝子らが住む東京からの逃避行であった。 旅の初めに山梨県境川村の早稲田時代の友人で俳人の飯田蛇笏を訪れた。そこに十日余滞在して長野県に入り小諸の田村病院にわらじをぬいだ。 田村病院には医師て創作同人の岩崎樫郎がいて牧水の来訪をあたたかく迎えてくれた。 病院は島崎藤村の『小諸なる古城のほとり』の城跡に近い旧中山道ぞいにあった。古い建物の二階の一室が牧水のために用意してあった。 窓の正面に浅間山があった。朝も夕も煙をたなびかせている。眼を麓に移すとなだらかな裾は松などの原生林におおわれている。 松林と平野を区切って流れるのがあの千曲川であった。平野の中には飛び石のように四、五戸ほどずつの村落があった。 昼には気付かなかったのが暮れて灯ともすころ、ぽつんぽつんと目についた。 外に出ると日本アルプスの連山が果てしなくうねっている。乗鞍、白馬の陵線が白銀に輝やいている。もう雪がきたのだろうかー。 南国生まれの牧水をひきつけておかぬ信州の山と平野てあった。 病院の裏庭にはリンゴの木が二、三十本も植栽してあって紅色の実をつけている。 それを見てさえわけ知らぬ涙がこぼれた。 |
「創作」時代 (5p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
「創作」時代 (6p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
小諸の田村病院に滞在中の牧水は、乱酔のため患った病気の治療と散策で日を過ごした。 病気の方は岩崎医師の懇切な手当で漸次快方に向かっていた。まだ作歌に打ち込めるほどの精神的安定はなかったが、岩崎医師ら小諸在住の歌人たちの集い『白閃会』に顔を出すこともあった。 新進の歌人牧水を迎えて彼らは大いに歓迎した。誘い出されて浅間山麓の鉱泉に湯治を兼ねた行楽の足を伸ばしもした。 碓氷峠から軽井沢、沓掛追分を回って帰る療養の身にはかなり無理と思える小旅行もこころみた。 そうした毎日が衰え果てた牧水の身と心に活気を呼び戻してくれるかにみえた。 かたはらに秋ぐさの花かたるらくほろびしものはなつかしきかな 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり 第四歌集『路上』に収録されるこれらの歌は小諸滞在中の作である。底知れぬ寂しさを蔵した歌ではあるが、その中に一種の落ち着きを感じさせる静かな調べかおる。 少なくとも先の乱酔から立ち直ろうとする牧水の姿勢がうかがえる。 ところが、その立ち直りの好機をふいにする日が訪れた。 千曲川のほとりを独り散策して帰ったある日の午後。小諸駅前の旅館から使いの者が来た。会うと一通の封書をたずさえている。 表書の文字で園田小枝子とわかった。胸をつかれる思いでひらいてみると、相談したいことがあって東京から出て来た。ぜひお越しくださるようーと五、六行に書いてある。 ちゅうちょした。だが、はるばるたずねてきたものをと思い返して出かけて行った。 小枝子は古びた旅館の一室にしょんぼり座っていた。信州の晩秋の日は暮れやすい。暗くなった部屋にまだ灯が入っていなかった。 彼女の用件は道々考えてきたとおり、このところ滞っている千葉の里親に送る養育費のことだった。 それに、彼女も東京の生活に疲れ切っている。生きてゆくあてもないのでつらいけれども故郷に帰ろうかと思う−と言う。 細々と語る小枝千の姿がいかにも哀れである。一段と薄くなった肩を抱き寄せたい。いとおしさが胸にわく。 だが、彼女の深刻な相談にこたえる資力など今の牧水には全くない。 こぶしを両のひざに置いてただだまって聞いているだけだった。 一晩、駅前の旅館に泊って小枝子は翌朝早い汽車で帰って行った。 残った牧水の胸中はまたも千々に乱れた。 |
小枝千が小諸を訪れた日から間もない十一月十六日、美しい自然と豊かな人情にひかれていた小諸をあとに東京に帰って行った。 牧水は、岩崎医師の奸意て病気が全治したら越後に足をのばす。それが旅の初めの計画だった。 だが、小枝子が持ってきた相談から越後への旅はもちろん、小諸に永逗留することも許されなかった。 癒え切らぬ病気と、ニカ月余前に東京を立つ時よりもさらに切端詰まった思いを抱いて東京にもどってきた。 翌早朝には月島西仲通の佐藤緑葉方を訪れて若い夫婦を驚かした。 帰京するとすぐに小枝千の異父兄に会った。小枝子をめぐって郷里の家や親類間でもめている。その話し合いにかかわらねばならなかったのだ。 問題が片付いたらまた旅に出るつもりだったが、小枝子との事のほかに『創作』の発行問題もあった。 しばらくは東京にとどまらざるを得なくなった。二、三日のつもりで佐藤方にころがりこんだが、新婚家庭に厄介になっているわけにもいかない。 当時、本郷に下宿していた中学時代からの親友平賀春郊に手紙を書いた。平賀は四十一年七月に鹿児島造士館(七高)を卒業後、同九月に上京、東京帝国大学法科に入っていた。 しかし、翌年には中学時代からの文学へのあこがれを棄てきらずに文科国文学科に転科していた。 平賀には、四十一年九月に結婚した妻節がいたが、単身上京していた。 彼は養子先の鈴木家を出て平賀節と結婚、この時から平賀姓になった。 牧水の手紙はこうだ。 『君にお願いがあるのだ。僕も今度という今度は実に弱り切っている。実は数日前に東京を逃げ出して大島に行くはずでいた。所が例の病気が昨今の寒さで激しくなって、大島はおろか、歩行さえ困難な状態だ。 それも医者にかかれる余裕はないし、売薬でごまかしているのだが、下手をすると目下少々危険な状態に臨んでいることが思われる。 で苦しい所をがまんして医者にかかりたいと思い出した。そこで君にお願いするのだが、来月の初めごろまで君の下宿に置いてもらえまいか。医者に通うのが困難なのだから下宿料はとても払って行くことが出来まいと思われるのだー』 牧水は佐藤方を出て福永挽歌の下宿にいた。それも永くはおれないための頼みだ。 結局は、福永の下宿から東郷出身の海野実門の下宿に移った。四十三年の暮れだった。 つづき 第50週の掲載予定日・・・平成20年11月9日(日) |
「創作」時代 (7p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |