第 62 週 平成21年2月1日(日)〜平成21年2月7日(土)
第63週の掲載予定日・・・平成21年2月8日(日)
比叡と熊野 (8p目/8pの内) 挿画 児玉悦夫 |
大正七年は年明け早々から災害や事件が多かった。一月十一日に東北・北陸地方を豪雪が襲い、新潟県三俣村では雪崩のため死者百五十七人が出だのに続いて二十日にも山形県大鳥鉱山で積雪のため飯場が倒壊、労務者ら百五十人が埋没した。二十五日には岐阜県坂下村で集落が豪雪で約一ヵ月孤立、ついに餓死者が出ている。 夏には米価が天井知らずの暴騰を続け、産米の県外移出を阻止しようと七月二十三日、富山県魚津町の漁民の妻女数十人が海岸に集合、船積み中の荷主に交渉したのを皮切りに各地で米騒動の火の手があがった。 八月十三、十四日を頂点に米騒動は全国の大中小都市に波及、九月十七日までに三十七市、百三十四町、百三十九村で大衆行動による検挙者数万人を数え、うち七千七百八入が起訴されている。 米価は明治三十三年ごろ一円で八升買えたのが、大正七年七月下旬には小売価格で『二升四合(二等米)』を記録している。 若山家の窮状推して知るべしである。 十一月十二日、牧水は利根川上流をたずねる旅に出た。九月初め、雑誌『東方時論』八月号に載った画家三上知治のスケ。チと紀行文『利根の奥へ』にすっかり魅せられてしまったのだった。 すぐにでも、三上の辿った道筋を辿ってみたい誘惑にかられたが、子供と自身の病気、それからくる手元不如意から実行できなかった。 それが十一月になって病気も癒え、旅費も出版社の好意で原稿料を前借りできた。快晴のこの日、上野駅発午前十一時五十分の汽車に乗ることができた。 この旅は、利根川ぞいの村々を川をさかのぼりながら泊りを重ねたあと、信州松本に行き、喜志子の実家、広丘村をたずねるなどして二十九日帰宅した。 十三日にわたる旅のほとんどが一人旅だったため、おもしろい経験もしたし、多くの歌も生まれた。後に歌集『くろ上』に収録された『みなかみへ』の百五十九首はこの旅で詠んだものだった。 わが行くは山の窪なるひとつ路冬日ひかりて氷りたる路 ちちいぴいぴいとわれの真うへに来て啼ける落葉が枝の鳥よなほ啼け ともしおく提灯の灯の湯気にこもり夜半のいで湯に湯のわく聞ゆ 歌だけでなく紀行文も『利根の奥へ』『みなかみへ』『利根より吾妻へ』『吾妻川』『吾妻の渓より六里ケ原』の五編を書いて『中外』『文章世界』『新潮』に発表された。 無理算段はしたが、実り多い旅になった。 |
明けて大正八年は、元日に細野春翠に誘われて三日まで千葉県犬吠岬に行ったのをはじめ、二月と七月を除いて毎月旅に出かけて席の暖まる暇がなかった。 暁鶏館に泊った牧水は、『犬吠岬にて』と題する一連の歌二十六首を作った。 ひさしくも見ざりしかもと遠く来てけふ見る海は荒れすさびたり(一月一日) 曇りつつ朝たけゆくやわだつみの沖の青みの澄みまさり来て(二日) 岩かげのわがそばに来てすわりたる犬のひとみに浪のうつれり(三日) この年の旅と、その旅行中に作った歌をみてみよう。 三月は七日から信州伊那地方に行き、辰野で聞かれた歌会に出席した。創作社の古い社友らに囲まれて浅間温泉などで遊び、帰りに喜志子の妹桐子の結婚問賜て彼女の実家に寄って帰宅したのが十四日早朝だった。 その析の歌は、『名は歌の会なれど旧知多く揃へる事とておほかた徹宵痛飲の座とはなるなり』と前言きして ちぢこまるわれに踊れと手とり足とり引き出だしたれ酔人どもは 死ぬ時し死なせよわれに死ぬばかり酒くらわせよ何も彼も知らず 悪友だちと連日連夜の酒のため歌は八日間で十五首詠んだだけだった。 四月は十一日から二十二日まで上州磯部温泉に出かけて林屋旅館に泊まった。十一日間滞在して作った歌は十一首のみだった。 とある樹の根にしたたれる苔清水見てをりていまは飽かずあるかな 川ばたの並木の桜つらなめてけふ散りみだる麦畑のかたに 五月は三十一日、昼食をしているうちにふと思い立って前橋に行った。赤城と榛名に登るつもりで、同地で外人相手の日本語教師をしている山崎斌をたずねたが、ここで風邪をひいて二日夜まで滞在した。 それで赤城登山は割愛して三日榛名の山上潮まで行き、湖畔亭に一泊して四日夜帰った。五日間の旅で詠んだ歌は十六首。 水無月やけふ朔日のあさ晴れてむら山のおくに雪の峰見ゆ 山の上の榛名の潮のみづぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ 六月二十六日にはまた細野春翠に誘われて水郷めぐりに出かけた。同夜は千葉県佐原町に泊り、翌日香取・鹿島神宮に参拝して潮来に遊んで一泊。途中、長塚節の生家をたずねて墓参、茨城県水街道町、筑波町と泊って三十日に帰った。歌はハ首。 をみなたち群れてものあらふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり |
旅・旅・旅 (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
旅・旅・旅 (2p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
八月三十一日は干葉県片貝村に行った。初秋の海が無性に見たくなったためで、片貝村は九十九里浜のほぼ真ん中にあって、白波と砂丘ばかりの海岸だった。 片貝館という小さな旅館に三泊、三十八首を作って帰った。 うち撓み寄れるうねりのひとところ白むと見れば裂けてくづるる 夏ばかり居るとふ鳥のいまだゐて白き羽根かはし鯔(いな)の子をとる 十月は二十九日から旅に出て十一月六日まで信州星野温泉に潜在した。信越線沓掛駅から約ニ`、落葉松林の中のただー軒きりの温泉宿明星館に泊まった。 今度の旅には創作社友門林兵治を連れて行った。彼が関西出身で山を知らないと言うので伴ったが、牧水にはこの十日ほどで仕上げねばならない急ぎの仕事があった。その手伝いにもなった。 また、牧水は痔を患っていた。前年十一月に信州に旅したときも妻の実家近くの鉱泉で療養しか。今度の温泉行きも仕事のほかに湯治もかねていた。 六日に明星館を出た牧水は、松本に行き、北安曇郡大町にいた親友の中村柊花に会って帰りついたのは九日だった。 十二日間の旅で歌二十首。作歌が少ないのは雑誌の仕事をかかえでいたためだ。 落葉松(からまつ)はなは散りやまず散りつもり落葉色なすその根の地(つち)に 散りすぎていまは明るき落葉松の細技がくりに小鳥をる見ゆ 十二月はは二十日に家を出て千葉県大原海岸の帆萬千舘に三泊した。 この時の作歌は二十首。 断崖(きりぎし)の岩うちそぎて建てられし宿屋のにはに浪うちあがる ひもすがら冬日さしたるこの部屋に旅のこころか疲れてゐたり この年の牧水の旅行日数は五十三日。旅で 詠んだ歌は百四十五首だった。 この間に、創作社の基金を作るために『百幅会』を企画した。牧水と和田山蘭、菊池野菊の三人が各自作の歌一首ずつを半折に揮毫して三枚一組五円で、百口だけ社友に頒布するというものだった。 『創作』新年号で発表してから七月号まで募集を続けてようやく百口をまとめたが、揮毫、荷造り発送と労が多いわりには残る金は少なかった。 そうした牧水の努力で『創作』は十月号までは順調に発行されたが、十一月号休刊、十二月号は本文僅か十二ページという寂しい状態に陥ってしまった。 暗い思いで大正八年を送った。 |
大正九年になっても『創作』の窮状は変わらない。一月号は休刊、ようやく出した二月号も僅か十二ページ、しかも長野市で印刷した。三月号は東京で刷って二十六ページ。四月号は四十ページとどうにか雑誌の体裁は整えたが、発行日は五月十五日と遅れてしまった。 次号は六、七月合併号にして三十六ページになった。牧水はその『編輯所便』で『創作』の経営から手を引くことを発表した。 それは、選歌、編集はこれまで通りに自分でするが、帳簿金銭の整理、印刷所との交渉、雑誌の発送販売などは義弟になる長谷川銀作、桐子の夫妻に一任する。 そして牧水一家は静岡県沼津町の在に移転することになろう。東京引退は前々から考えていたことで、沼津移住によって自分の本然の生活法に入ることがてきると喜んでいる。 そんな内容であった。 長谷川銀作と喜志子の妹桐子(潮みどり)は、牧水が前年の十一月、信州浅間山麓近くの温泉行の旅から帰った直後の同月十五日結婚式を挙げて、現在は横浜に住んでいた。 夫婦とも創作社の新進歌人として頭角をあらわしていたが、特に長谷川は将来出版界に進みたい希望を特っていたし、妻の桐子は前に牧水の家に同居していたころ、創作社の事務を手伝ったことがある。 ,長谷川の将来への希望と桐子の経験、それに両人の創作社友としての実績を買って後事をまかせることにしたものだ。 一方、沼津町への引越しの話もめどがついていた。 牧水が『東京から引退したい』と考えた原因は来客とこれに伴う飲酒であった。牧水は人一倍孤独を愛する半面、かなり交際好きな人でもあった。 当時、家にいると毎日二人か三人、多い日には五人から十人もの来客があった。いわゆる文学青年たちである。牧水自身がしている仕事を放ってでも客があれば酒を勧めなければ気がすまない人である。 来客があれば必ず酒。それが若山家の習慣であった。 牧水自身の来客と酒からの逃避。それに三人の子供が余りじょうぶでなかった。その二つの理由からどこか静かな田園地帯に移って健康的な生活をしたいと考えていた。 それもどうせ東京を離れるなら箱根山の向こうにしたい。あれこれ考えるうちに心に浮かんだのが沼津であった。そこは牧水が最も愛する富士山を朝に夕に仰ぐことができるし、白砂青松の千本松浜がある。 幸いに創作社友で早稲田の学生である神部孝が沼津町の出身だった。彼の父親の世話で借家もほぼ決まっていた。 つづき 第63週の掲載予定日・・・平成21年2月8日(日) |
沼 津 へ (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |