第 70 週 平成21年3月29日(日)〜平成21年4月4日(土) 

第71週の掲載予定日・・・平成21年4月5日(日)

大 悟 法
(3p目/3pの内)




 挿画 児玉悦夫

  香貫の家にはもちろん喜志子がいた。彼女もまた秀れた歌人である。だが、雑誌編集など牧水の仕事については、連絡役はつとめたが直接タッチすることはなかった。
 四人の子供をかかえで家事専業だった。大悟法が同家に住むようになって、牧水も仕事上の不安が軽減され、心おきなく旅に出ることができた。
 喜志子も大悟法が仕事上の留守番をしてくれることを歓迎した。信州の旧家に育った彼女はおっとりしたところがあった。世の閨秀歌人、作家のように世間にしゃしゃり出ることを性格的に好まなかった。
 夫牧水の仕事の成功を念じて家事を守ることを妻としての使命とも幸せとも感じていた。牧水にも妻の心情は十分伝わっていた。
  『山桜の歌』の中の歌にそれかある。

 いとし子を四人まうけついつしらずをみなさびしてよろしき我妹

 我妹子のこころはひたにわれに向ふ我妹子のこころたもたざらめや

 経済的な乏しさはあったが、それを超える豊かさが家の内にみちていた。
 長男で牧水創設以来の『創作社』主宰である若山旅人氏は、四月二十七日、延岡市の野口記念館で開いた『牧水生誕百年記念文化講演会』に出席、講演の中でこの時代を次のように回顧している。
 湯原小学校のころのある日、担任の先生から宿題が出た。今では考えられないことだが、 『うちにいくらお金があるか』と言う。
 下校の途次考えた。『きっと一万円はあるだろう』。当時の一万円と言えば今に換算すれば二千万円以上になる大金だ。

 抽匣(ひきだし)の数の多さよ家のうちかき探せども一銭もなし (くろ土)

 と言うわが家の状態なのにー。しかし、父牧水は、子供らの前で家計の苦しさなど毛ほどもあらわにしなかった。いつも春風駘蕩。四時間以上もかけて夕食をとっていたが、まつわりつく子供らに『荒木又右衛門』や『岩見重太郎』などの話をおもしろく語って聞かせてくれた。
 だから、子供心に『うちはきっと金持に違いない』そう思ったものだろう。
 長女石井みさきは著書『父・若山牧水』で当時の母喜志子の生活ぶりをしのぶ。
  『この香貫の家時代が、母の一番幸せな家妻のくらしだったのでなかったろうか。小学校入学前後という私の年齢に刻まれた記憶の故か、私たちの身のまわりにはしっとりとした母の世話がゆきとどいていて、母自身も充足していたように思える』
 黒髪豊かで色白の喜志子の身辺に『撫子の花のようななつかしいにおい』が漂っていた。


 牧水は大悟法が来てくれてこれまでより気軽に旅に出れる気分になった。それに、この頃になると、貯えとまではいかずとも新聞雑誌の選歌料の収入があるため、仕事の段取りさえつけば旅に出かけられる経済的余裕ができていた。
 十一年の秋も涼風にさそわれて旅に出た。
 九月十七日には名古屋市で聞かれた歌会に出席した。その夜は犬山まで行き、犬山城下の木曽川河畔に建つ迎帆楼に泊まった。
 犬山は成瀬氏三万九千石の城下町。町のシンボルである犬山城の優美さは木曽川の清流とよく調和して天下に知られる名城だ。
 中国四川省東端、奉節郡の東の揚子江北岸にあった古城白帝城にちなんで゛白帝城〃の名がある犬山城をあおぎ見る旅館から、沼津の喜志子と東京の細野春翠とに創作社友らと寄せ書きの絵葉書を出した。

 (喜志子あて) 『これから舟、舟に満載して、ずっと奥に出かける牧水』

 (春翠あて) 『春翠よ、お前さまとチトー度遠出をして見度くなった。此処などもわるくないぞ。ナモナモトサヘヅルコトリノナ力ニアリテスヒスフツユハオイシキゾナモ』。
 ナモは名古屋弁の常用語。舟に人と酒を満載して十八日は日本ライン下りを楽しんだ。
 長野県木曽郡木祖村八森山を水源とする木曽川は、御岳の清流を合わせて、愛知、岐阜両県の県境に至って日本ラインの景勝をつくり出している。  牧水らは犬山から木曽川南岸を今渡まで上ってそこからまた犬山まで十三`の急流、深淵を下った。奇岩軽石を右に左に見ながら船頭のだくみな竿さばきで下る船は、ガツンガツンと波が船底をたたき、しぶきが船客の肝を冷やした。
 翌十九日はこれも名代の犬山焼の窯元を訪れて楽焼を楽しんで同夜沼津に帰った。
 この小旅行で詠んだ歌

 桑畑の中をすぎ来てかへりみる犬山の城は秋霞みせり

 立ち入れば陶器(すえもの)つくりが小屋のうちうす暗き奥に素焼はならぶ 
 同月二十三日から伊豆畑毛温泉に三泊。

 人の来ぬ夜半をよろこびわが浸る温泉あふれて音たつるかも

 十月九日は村松道弥と国府津に出て駅前の蔦屋に泊まった。喜志子に翌朝絵葉書を出しておいて上京、二、三日滞在して帰った。
  『この絵葉書、全景と称すれどもまことは半景か三分景にして、僕等の宿見ゆることなし。ラレコ (註・コレラ)のため、お膳寂し、お椀、蒲鉾、鯖の照焼、それにフライがついている。二個のうち一個だけ鮎なのがありかたい。イマ、二本目、九日夜七時 』
樹木とその葉
(1p目/16pの内)




 挿画  児玉悦夫
樹木とその葉
(2p目/16pの内)




挿画 児玉悦夫

 十月十四日、牧水は数ヵ月前から計画していた信州から上州の各地を回る長期の旅に出た。早朝に沼津を出て東京に行き、村松道弥、門林兵治の二人を伴って午後二時二十分、上野駅発の汽車に乗り、同夜八時には長野県北佐久郡の御代田駅のプラットホームに降り立った。
 同郡の郡役所がある岩村田町に本社を持つ佐久新聞社主催の短歌会に出席するためだ。駅には土地の歌人二人が新聞社の社員と出迎え、待たしてあった車で同町に向かい佐久ホテルに着いた。
 その夜は遅いからと、酒数本を飲んだだけで床についた。翌朝は起床が早かった。
 山国の秋の空はあくまで澄んでいて、その青い中に浅間、蓼科、八ケ岳がくっきり浮かんでいた。近くから山羊のなく声が聞こえてくるひなびたホテルだった。
 ホテルで飼っているのだろうかと思っていたら、案の定、朝食に山羊乳のコップが添えてあった。飲むと千草のにおいがした。
 歌会は午後、新築間もない新聞社の二階で催された。参加者は三十人ほど。その中には親友中村梅花の顔もあった。
 閉会後、近くの料亭で懇親会があったが、その宴が果てたあとも会員十人ほどがぞろぞろ牧水のホテルについてきた。そして二次会になり、そのほとんどが泊ることになった。飲み疲れて布団にもぐりこんだのは夜明けに近かった。
 翌朝は軽便鉄道で小諸町に行った。中村ら同行七人。懐古園をたすね、そこに家を造っている土地の歌人の家でお茶代わりの酒をふるまわれた。
 小諸は、明治四十二年九月、小枝子との苦しい恋を忘れるため歌人の岩崎医師をたよって訪れニヵ月近く滞在したところだ。その時、上地の歌人数人と親しくなったが、その一人に井部李花がいた。
 彼は数年前、牧水がこの月の八日に泊った国府津の駅前旅館蔦屋に宿泊中に急病を得て死亡していた。その亡友の生家が料理屋を営んでいることを思い出して、その店で昼食をとることにした。
 夕刻までそこにいて今度は汽車で沓掛駅まで行き、星野温泉に着いた。土地の者二人は小諸で別れたが、あとの五人は別れがつらい、と牧水についてきて泊った。
 旧知の仲だから前夜にましてにぎやかな酒宴になった。土地の名物の鯉料理、しめじ汁、とろろ汁などをさかなに飲みに飲んでいつ横になったか覚えぬ有様だった。
 翌朝はその割りには早く寝床を離れたのだが、朝食の膳につけた酒が昼まで続いた。そのうえ、牧水の発案でこれから全員で軽井沢に行き、そこで別盃をくむことになった。

  軽井沢では、そば屋の土間続きの四畳半の部屋に六人が座って酒になった。午後六時、草津軽便に乗る牧水を見送って東京組と信州組とがそれぞれ別れようというわけだ。
 ところが、牧水の考えが変わった。
  『門林君、僕と一緒しないか。この汽車で嬬恋まで行って明日川原湯泊り、それから関東耶馬渓にそうて中之條に下って渋川、高崎と出ればいいじゃないか。僅か二日余分になるだけだから』
 みんなが門林の顔を見た。彼はいつもの静かな□調て答えた。
  『行ってよければお供します。どうせ東京に帰っても何もないんですから』
  『うらやましいなあ』
 村松が本心から言った。
  『えらいことになったぞ。しかし、行きたまえ。行った方がいい。この親爺さんを一人出すのは何だかかわいそうになった』。
 年長の中村柊花が酔った頭を振り振り言った。そこで皆がわけもなく拍手した。
 牧水の当初の計画は岩村田の歌会のあとはすぐに汽車て高崎に引き返し、そこで東京組二人とも別れて一人旅をするつもりだった。
 それが、小諸から星野温泉に行って泊り、軽井沢まで皆と一緒に来た。その上、門林を伴うということになった。酒が次から次へと新しい旅をもくろむのだった。
 牧水と門林が畳を二枚長なりに継いだような草津軽便の車室に入ると、あとの四人も切符を買って乗ってきた。彼らが二手に別れる信越線の上り下りにまだ間かおる。旧軽井沢爽て送ると言う。
 ほどなく旧軽井沢に着いてようやく別れになった。信州組は三人。東京に帰るのは村松一人だ。
  『村松君、すまないなあ』
 寂しく帰る彼の手を窓越しに握って牧水が言った。村松の目がうるんで見えた。
 終点嬬恋駅着は九時。駅前の旅館に行って部屋に通ると囲炉裏が切ってある。それにこたつをしつらえてくれた。
  『お客さん、今日は泊りがなかったもんで風呂をわかしていない。案内させますから隣の風呂に入って下さい』。
 と言う。おっくうだったが、一風呂あびなければ眠れそうにない。少女の案内で運送屋らしい新築の家でもらい風呂して帰った。
 風呂はぬるかったが、こたつの暖いのが何よりありかたい。ここでは九月のうちに雪が来たそうだ。『残りものばかりで』という飯のさいをさかなに酒を飲んで寝た。
 翌日は雨。その中を川原湯まで歩くのがたいぎになった。また予定を変更して乗合自動車で草津温泉に行くことにした。

   
つづき 第71週の掲載予定日・・・平成21年4月5日(日)

樹木とその葉
(3p目/16pの内)





挿画 児玉悦夫
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