第 72 週 平成21年4月12日(日)〜平成21年4月18日(土) 

第73週の掲載予定日・・・平成21年4月19日(日)

樹木とその葉
(8p目/16pの内)




 挿画 児玉悦夫

 嗚滝館の二階の部屋で一杯傾けていると、宿の者が来客だと言う。疲れているから明日にしてくれ、と言ったものの気がかりになって階下に降りた。
 玄関で四人連れの青年が帰りかけている。呼び止めて部屋に招じ入れたら  『若山先生がおいでになると聞いていましたので、ご迷惑かとは思いましたが、お伺いしました』。
 丁重に挨拶する。宿泊先は郵便局員に聞いたものだ。それに『牛ロ君も追っつけまいります』。
 牛口善衛は創作社の社友の一人だ。此処、群馬県利根郡には社友三人がいる。連絡がつけば会いたいと思っていたところだった。
 ほどなく牛口が四`ほどの夜道を自転車で駆けつけた。
 真面目な青年たちで歌や俳句、それに土地の話などして彼らが帰ったのは十一時過ぎだった。牛口には『よかったら明日、法師温泉まで行かないかー』。誘っておいた。
 翌(十月)二十二日も快晴だった。
 四時に目覚め、手紙を四、五通書いて六時には朝食をとった。そこへ『お供します』。牛口が声を弾まぜてやって来た。
 牧水は川の水上(みなかみ)に不思議な愛着を抱いていた。川の流れをさかのぼって行くと幾つもの支流が集まって大河を形成していく川の生い立ちがわかる。
 さらに登りつめると、細い流れがいつの間にか木の根、岩の根、朽木、落葉の下に消えてどこが源流か目をこらしても定かでない。
 牧水はそこに至って胸苦しいまでの感動を覚えるのである。
 牧水は大正七年の秋、利根川のみなかみを探るため沼田から更に分け入り、越後境の湯檜曽まで行った。さらにその更を踏査するつもりがったが、雪に阻まれて帰っている。
 今度の旅は、利根川の支流の一つである片品川の更に入るのが目的だが、その第一段階として沼田から八`程上流で合流している赤谷川をさかのぼり、その詰めにある法師温泉に泊る計画だ。
 昨夜、牛口から『ぜひ沼田で歌会を開いてほしい。その準備をしているからー』と話があった。予定になかったが、彼の熱心さに負けて二十四日に開くことにした。その間を法師温泉行きで埋めることにした。
 利根川本流、そして支流赤谷川ぞいを辿りながら、牛口が義民傑(はりつけ)茂右衛門の哀話や塩原多助の生家など、土地の話を語ってくれる。
  『あのわらぶきの屋根が、高橋お伝の生まれた家ですよ』。
 意外な事を言って牧水を驚かせもした。

  赤谷川ぞいの道を登って行った。この流域の中心地である月夜野村を過ぎ、七時間ばかりも歩き続けたころに猿ケ京村の入口に着いた。この村には創作社友松井太三郎が往んでいる。会って行きたいと考えていた。
 出会った村人に聞いて街道からはずれた畑の中の小径を行くと、編笠をかぶり、しり切れ半纏と股引きをはいた老人とも若者ともわからぬ農夫がやってくる。直感で牧水が、  『松井君ですか、あなたは』。
  一瞬驚いた様子で二人をまじまじと見つめていたが、合点したらしく笠をとって丁重に頭をさげた。三十歳前後の青年だった。
  『はい、松井です。若山先生でしょうか』。
  『創作』の編集後便に今度の旅行の日程を知らせておいた。それで察したようだ。
 沼田の牛口を紹介して、これから法師温泉まで登るつもりだと言うと、その前に是非ともうちに寄って欲しいーと言う。
 案内された彼の家は杉の木立に囲まれていた。庭一面に散り敷いた杉の落葉を踏んで家に入ると、一間囲炉裏の板間に老母が座っていた。古びた農家だった。
 松茸の味噌漬で茶をよばれたあとで松井に言ってみた。
  『松井君、農繁期で迷惑かもしれないが、よかったら一緒に法師温泉まで行かないか』 彼は台所に立っていた老母に耳打ちしていたが、奥の部屋に入ると着物を着かえてきた。法師温泉まで約十二`の道を同行することになった。
 猿ケ京村にはもう一人社友がいる。特定郵便局長の息子だが、松井の話では折悪しく仙台に行っているということだった。黙って通り過ぎもならぬので父の局長に言葉をかけて先を急いだ。
 法師温泉に着いたころには秋の夜のとばりが下りていた。真黒い峰に切り取られた空に星がまたたいていた。
 温泉宿長寿館の湯量豊富な浴槽で手足をのばして部屋に帰った。がらんどうの部屋に炭火が山とつがれていた。その囲炉裏だけがひどく豪華に目に映った。
 牛ロと松井を相手に酒を飲んでいると、一升瓶をさげた若者二人がたずねて来た。途中の村と沼田在住の人で牧水が法師温泉に向かったと聞いて後を追ってきたと言う。
 沼田の青年は生方吉次という画家で米国に五年程留学している。彼が前年三月新潮社から出た歌集『くろ土』を取り出して、口絵の写真と牧水の顔を見比べていたが、
  『やっぱり本物に違いありませんねえ』
 牧水らが驚くほどの大きな声で言うとカラカラと笑った。
 四人を相手にその夜もしたたかに飲んだ。
樹木とその葉
(9p目/16pの内)




 挿画  児玉悦夫
樹木とその葉
(10p目/16pの内)




挿画 児玉悦夫

 翌二十三日は午前五時に牛口、松井を伴って長寿館を出た。生方ら二人は一日遊んで帰ると言っていた。
 日がようやく高くなったころ、十二、三歳からはたち頃までの若い女性二十人ほどが三三、五五と連れ立って登って来るのに会った。松井が牧水を振り返って笑い顔で言った。
  『先生、残念でした。これが昨夜だったら宿で三味や唄が聞かれたんですが』
 有名な越後の督女(ごぜ)だ。収穫前の農閑期をねらって稼ぎに来て雪が降る前に帰って行くのだと言う。
 牧水は、松井が言うように宿屋で聞くよりか、いまこの山路で呼び止めて彼女らに歌わせた方がよほど情趣に富むと思った。
 だが、このもくろみは牧水の胸の中で描いてみるだけ。善良な若者二人に言うべくもない。心残りながら黙って一行を見送った。
 猿ケ京村はずれの笹の湯温泉で昼食をとり、湯の宿温泉で草鞋のひもを解いた。二人の若者とはここで別れ、牧水は疲れてもいたのでまだ陽は高いが泊ることにした。
 二十四日は約束通りに沼田の旅館青池屋で歌会があった。歌人というより、村の文化人の集いであとは酒、散会したのは午前一時。それからこの山国の人たちは二十`近い山道を帰って行った。都会人と相違してたくましい歌詠みや俳人たちであった。
 翌朝、昨夜の歌会の出席者たちの見送りを受けて沼田を出発した。生方は青池屋の下駄をはいたまま今夜の泊り老神温泉までついて来た。そして一緒に泊ると言う。
 とろろ汁と夕方釣ったばかりの山魚の魚田をさかなに二人で飲みはじめた。いつしか音もなく時雨が温泉宿をつつみ、やがては軒先に時折り激しい雨音を立てていた。
 老神温泉への道すがら牧水は幾首かの歌をノートに書きとめていた。その歌を盃を口に運ぶ合い間に低唱してみた。

 わが急ぐ崖の真下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて

 きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも

 翌朝、目覚めると外はひどい吹き降りになっていた。雨戸を細くあけて戸外をのぞくと、宿の前の渓川をへだてた山腹に霧雪が渦巻いて起こり、立ち昇っては四散していた。
  『これじゃ立てないね』。
 徳利を取り寄せて朝から一杯はじめた。いい心地になりかけたら雨戸の隙間が明るくなってきた。『晴れますよ』。生方が部屋を飛び出して番傘と油紙を買って来た。
 彼は番傘、牧水は油紙を雨合羽にして宿を出た。生方は沼田へ、牧水は片品川のみなかみへ、名残り惜しく別れる。

 宿を出る前、牧水は生方が買って来た番傘の裏に初めて会った記念の歌を書いた。
  『古次君に寄す』

 かみつけのとねの郡の老神の時雨降る朝を別れゆくなり
             大正十一年十月廿六日   旅人牧水

 なお書きつげる一首

 相別れわれは東に君は西にわかれてのちも飲まむとぞおもふ

 生方は色の黒い小男ながら、両の眼にいいしれぬ情の深さをたたえる歌人にひかれていた。牧水もまた、米国で苦労しながら近代画法を学んできたという若い画家の、気鋭ぶらぬ言動を好もしく思っていた。
 酒がまた二人の間にあるべき初対面の垣をわけなく取っ払ってくれた。
 生方と別れた牧水は、その日の暮れ方に群馬県利根郡片品村白根温泉のたった一軒の温泉宿に着いた。
 途中、この地方切っての山林王千明家をたずねた。明後日二十八日には上、下野の国境の金精峠を越えて栃木県の日光に行くがその途中で一泊しなければならない。その山上に同家が鱒を養っている丸沼の番人小屋かおる。
 そこに泊めてもらうための訪問だった。主人は不在だったが、夫人がいて快く承知してくれ、番人に紹介状を書いてくれた。
 さて、白根温泉についた牧水は、さっそく浴槽に身を沈めた。破れた板壁から月が顔をのぞかせる浴室だった。囲炉裏のある部屋に帰るとまず酒を注文した。湯あがりの一杯を楽しみに時雨の道を急いだものだ。
 ところが、無情にも酒がない、と言う。
  『そりゃあ困る。どこぞ使いをやってもらえまいか』
 頼み込むと、十一、二と八歳くらいの宿の兄姉が『オレが行ってやる』。暗くなった道を駆けて行った。しばらくして帰って来たのを見ると手ぶらだ。
 こうなると酒飲みは意地汚い。
  『厄介だが、ぜひ、探して来てくれないか。おじさんは酒がないと眠れんのだよ』。
 やがて『酒があったよ』『大鳥屋ならあるべえと思ったらあった』。二人が手柄顔に報告しながら一升瓶二本を提げて帰って来た。

  頼み来し その酒なしと
  この宿の主人言ふなる
  破れたる紙弊とりいで
  お頼み申す隣村まで
  一走り行て買ひ来てよ
  その酒の来る待ちがてに
  いまいちど入るよ温泉に
  壁もなき吹きさらしの湯に(枯野の旅)

 二本のうちの一本は明日の土産。残り一本の底が見えるまで飲んで床についた。

   
つづき 第73週の掲載予定日・・・平成21年4月19日(日)

樹木とその葉
(11p目/16pの内)





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