第 82 週 平成21年6月21日(日)〜平成21年6月27日(土)
第83週の掲載予定日・・・平成21年6月28日(日)
揮毫行脚 (4p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |
千本松原の陰の若山邸新築工事は七月二十八日、土肥で組み立てるだけに切り込んだ材料が船で千本浜に陸揚げされた。 八月四日には棟上げになった。三十人ほどの大工職人らが『若山』と染め抜いた新調の印袢天を着て平屋建ての離室の屋根にしつらえた式場から餅を投げた。餅は二日前から用意したもので三十俵。創作社社友や沼津市内の来賓有志のほかに近所の大供子供二百人ほどが餅拾いに集まった。 牧水も大工職人とそろいの袢天を着て餅を投げるはしゃぎようで、式のあと改めて祝宴を催した。 この月も二十一日から喜志子を伴って揮毫行脚に旅立った。千葉県大森町を最初に手賀沼、佐倉、多古と同県内を回って二十八日に帰宅。翌月は三日に沼津発、栃木県喜連川町に行き東京に寄って八日帰宅。その後は自宅であやしき姿で筆をとる日が多かった。 『夢』と『手賀沼に遊びて』の二篇の歌はその頃の数少ない作品で、多くは即興の歌である。ただ、『夢』には日一日仕上がっていくわが家を見、あるいは旅の宿で想像するたびになぜか故郷の母が思われてならなかった牧水の心の動きがしのばれる。 〔夢〕 故郷に墓をまもりて出でてこぬ母をしぞおもふ夢みての後に 空家めく古きがなかにすわりたる母と逢ひにけりみじかき夢に かたくなの母の心をなほしかねつその子もいつか老いてゆくなる 〔手賀沼に遊びで〕 かろやかに音かきたててわけてゆく真菰がなかの舟のちひささ さかづきのいと小さきに似てもをれや浮きて咲きたる水草の花 若山邸は九月末に完成、日を選んで十月五日に木の香も芳しい新居に移った。沼津市本字南側六一番地、通称『市道町』と呼ばれ市の西のはずれに位置した。 家は二階二室階下九室計十一室。延べ面積七十九坪二合二勺。千本松原に続く桃畑の中の一軒家だから眺望がすばらしい。 真正面に富士、東に沼津の町の上にそびえる足柄連山があった。 上地、建物すべて牧水の理想通りであった。それだけに土地購入、建築費も当初の予定よりかなりの上積みになった。新居に落着くとともに改めて資金作りの苦労を思わずにはいられなかった。 それに新しい総合雑誌発行の計画もある。これも多額の資金を用意しておかねばならなかった。牧水はせき立てられる思いで同月二十八日、妻と揮毫行脚に西下した。 |
今度の旅の目的地は九州地方であった。昨年の春、亡父の十三回忌供養のために坪谷に帰る途次、北九州地方を訪れている。その折に下相談を親しい社友にしているので頒布会成功の目算があった。 途中大阪に一泊して二十九日に岡山着。社友宅に四泊してこの地方の頒市会をすませて山口県で二日休養、十一月四日に九州八幡に着いた。 北九州ではハ幡に五泊、福岡の加藤介春方に四泊。長崎に十三日着いて四泊、十七日に大牟田の若山峻一方にたずね船小屋鉱泉に行き、二十四日まで滞在した。 このあと熊本市に一泊して二十六日阿蘇山麓の栃木温泉に行き荒牧旅館に泊った。 熊本から黒木伝松と九州日日新聞の後藤是山、高木大樹が同行、阿蘇山に登った。伝松は東京に出ていたが神経衰弱が昂じたため前年十一月に姉の嫁ぎ先の縁で熊本県に帰って小学校教員になり、この頃は菊池郡陣内村(現大津町)の陣内高小の準訓導をしていた。 この時の牧水の歌 散りすぎし紅葉を惜しむ霜月の栃の木の湯の静かなるかも 阿蘇が嶺の五つのみねにとりどりに雲かかりたり登りつつ見れば また伝松は師夫妻の先に立って山を登りつつこう詠んでいる。 しづしづと日光(ひかげ)うつり来しまむかひの山のなぞへの萱の かがやき 秀でたる嶺より嶺をおほひゆく雲に力あり見つつ登れば 阿蘇登山には一つのエピソードがある。登山には旅館から案内人が出たが、ちょうど猟解禁日からほどない析りだったため猟銃をかついでいた。 喜志子も一緒に元気に火口まで登り、草千里から湯の谷を少し下った所に二、三軒の人家があり葉のまばらな榎の梢に小鳥が群らがっているのが見えた。 牧水は案内人から猟銃を借りると狙いをつけて引き金を引いた。銃声とともに数羽の小鳥が落ちた。伝松らが探しに行こうとしたところ一軒の家から老婆が出て来て叫んだ。 『いまうちで赤子の出来たとこじゃが。そぎゃんむげなこつばせんばな』。 牧水は驚いた表情で老婆に頭をさげて急ぎ足でその場を去った。 牧水の没後、熊本市で追悼会が聞かれた。席上、高木がこのことにふれて言った。 『あの時、先生が銃で小鳥を撃ったのは残酷だと思った』 伝松はそうは思わなかった。これこそ牧水の自然児らしい振舞いでないか−とむしろ肯定していた。 |
揮毫行脚 (5p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |
揮毫行脚 (6p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |
阿蘇に登った翌日二十八日に熊本市に引き返した。予定では同地に一泊して次の揮毫と講演会の開催地鹿児島市に向かうことになっていた。ところが、主催者の地元の創作社友前之園喜一郎夫妻が旅行で不在のため二、三日延期して欲しいと言ってきた。 牧水には幸いだった。休養をとるため大木がしきりに勧める霧島温泉に足を延ばした。鹿児島線を牧園駅で下車して約一時間、自動車を駆って登った。霧島温泉の中の栄之尾温泉に宿をとった。 此処は海抜九百余b。山の温泉場は底冷えがした。豊富なのが救いの湯につかって喜志子と火鉢を抱くようにして向かいあったが、背中からど’っと寒さがおおいかぶさるようだった。顔を見合せてつぶやいた。 『大木君はああ言ったが、大変な所に来たものだねえ』。 途中、身体がほうり出されるような悪路の動揺が疲労が重なっている身にはこたえた。それが気分まで落ち込ませたのだった。 だが、それも酒を五本六本と飲むうちにいつかおさまって早くから床についた。 翌朝早く目ざめると雪だった。赤松が混じる深い樹林を絣に織って牡丹雪が舞っていた。雪は終日止まず、はるか下界の錦江湾に浮かぶ桜島が上半身に雪をまとった。思いがけぬ雪景色に最初の夜の不満は消えていた。三泊して鹿児島市に向かった。 明方の月は冴えつつ霧島の山の谷間に霧たちわたる 霧島の山の檜の木にはつ雪の白くつもりてやがて消えたる 鹿児島市は山下町の前之園方に泊って揮毫会と講演会を開いた。同市には早稲田大学同期の牧暁村もいる。当時は鹿児島新聞記者として健筆をふるっていたが、旧友の来鹿を喜んで土地の有志らと歓迎会を開いてくれた。 鹿児島では鶴の渡来地阿久根、砂湯が有名な指宿温泉を訪れて十日朝出発、都農町の河野佐太郎宅に辿り着いた。 河野方には母マキと今西夫婦らも来ていた。沼津を出るときに『今回は坪谷に寄る時間がないので申しわけないが都農まで出て来て欲しい』と、連絡しておいたものだ。 河野方には二泊したが、牧水はマキに沼津の家の模様を語って聞かせ、これで借金を二万円ほど作ったが来年中には返済する。『貴女もうちに来てのんびり暮らしてはどうか』と、こりもせずに出郷を勧めていた。 十一日に都農駅から別府に向かった。母と長姉スエ、次姉トモの二人を伴った。延岡から北を鉄道で行くのは牧水には初めてだった。 食堂車で走り去る景色を眺めつ女性四人を相手に酒を傾けて行った。 |
二人の姉を連れ出したのにはわけがあった。スエは裕福な河野家に嫁いで経済的には恵まれていたが子供がいないため淋しい思いをしていた。トモはその子供が十人もいた。小学校教員の給料ては経済的に苦しく毎日の生活に追われていて温泉どころか旅館に泊ったことさえなかった。 日頃の淋しさと苦労を慰めるために誘ったものだった。末姉のシヅは足が不自由なため連れ出すことを遠慮した。 別府では日名子旅館の離室の上下を借り切った。身内五人のほかに中津在の大悟法利雄の両親雄太郎と鶴枝を何度も連絡して招いていた。総勢七人の賑やかな宿泊になった。 日名子旅館には三泊した。そのある日、町を歩いていて昼食時になったので牧水が母に声をかけた。 『おっかさん、あんたは何か食べたいね』 マキは大きくうなづいて答えた。 『うん。何も別に欲しいとは思わんがの。金だらいを一つのう』。 夕食の膳に向かいながら牧水がマキにしみじみと語りかけた。 『おっかさん、私も随分ともう酒を飲んで来たからこれからは少し慎しもうと思うよ』。 自分でも反省していたし、母を憚る気持で心底そう言ったのだった。だが、 『いんにゃ、酒で焼き固めた身体じゃかる。やっぱり飲まにゃいかん』。 町での聞き違いは大笑いだけで終わった。酒の話にも姉たちは笑った。牧水も声に出して笑ったが、ふきこぼれる涙をとどめようがなかった。 十四日朝、老母と姉二人を駅まで送ってから波止場に行った。七十九歳になる母と白髪が目立つ姉たちとのプラットホームでの別れはさすがに淋しかった。その胸中を察したかのように大悟法の老夫婦が牧水夫婦を乗船まで見送ってくれた。 別府−大阪航路の紅丸で十五日大阪に着いた夫婦は京都に二泊して十七日午後沼津の家に帰り着いた。五十一日間の長旅であった。 目的の半折頒布はハ幡会場の百三十一点、九百五十円(ただし現金は百円)を最高に各地とも順調な成績になった。揮毫行脚は予期通りの成功であった。 一方、牧水の酒も豪気であった。『朝三、四合、昼四、五合、夜一升以上。この間揮毫をしながら大きな器で傾ける。また別に宴会がある。一日平均二升五合に見積り、この旅の間に一人して約一石三斗を飲んできた』勘定になった。 牧水はこの数字に驚き、これで馬鹿飲みをやめることができる−と述懐しているが、揮毫行脚が続く限りそうはいかなかった。 つづき 第83週の掲載予定日・・・平成21年6月28日(日) |
揮毫行脚 (7p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |