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渋 温 泉 へ 大正九年五月二十−日 牧 水 それから杉の植え込まれた山と山との間の急な 坂を下りて程なく上林温泉の横を過ぎ、一つの橋を 渡って家の建ち込んだ渋温泉に入った。 そして其虞の津端屋といふのに草鞋を解いたの は正に五時であった。 「旦那の脚の達者なのには魂消た。」と孝太爺に ほめられながらも一度湯に入って二階の部屋に上 らうとすると、両方の脚ともまるで筋金入の様にな ってゐた。 鮮かな西日が窓から一杯に射し込んだ 部屋に眞裸體のまゝ打ち倒れながら、思はず知ら ず、「やれやれ」と聲に出して云ひ出でた。 |
信州に入ればもうこっちのものだと思はれたのだ。四方の勝子も解ってゐるし、知人も多いし何だ か自分の郷里に入ったやうな心安さが自づと胸の底から湧いて来る。「やあれやれ」と繰返しなが ら、どうして今夜この歓びを表はしたらいゝものだらうと考へ始めた。 昭和62年5月31日除幕 長野県下高井郡山ノ内町渋温泉 |