千本松原の保存にたつ
大正十五年 八月(1926)41歳
静岡県沼津の千本松原
大正十五年八月、牧水はいつもの通り「千本松原」を散歩しました。 老樹や老松の皮が一部がはがれて番号が付けられているのが眼につきました。 不審に思い調べたら、静岡県が国から払下げて番号を付けた老樹や老松を伐採して経費 に当てるとのことを聞き、驚き且つ悲しみ何とかして保存しなければと考え、二回抗議文を公 にしました。 それでも心配なので沼津で千本松原の保存大会を開催して自ら壇上に立って保存を訴え ました。 幸いに当局を動かしまして千本松原が昔のままに今日まで保存されています。 抗議文は随筆として残されていますが、その 抗議文の終りの一部 を記しておきます。 |
第一回抗議文 「……(前略)然るにわたしは近来このわ が一生の好伴侶である松原の中に、驚く べき悲しむべき一現象を発見した。 そはわが親愛なる松の木の幹の皮を剥 ぎ『一三五』とか「一五八」とかいう番号の 書きつげられてあることであった。 而もそれはこの松原の最も深邃なる部分 例の首塚から西、甲州街道を中にして北側 謂わばこの松原の目貫の場所に限られて いるのである。 わたしはまったく慄然とした。それを発見 した後数日間はわたしは其処を散歩するこ とをすらしようとしなかった。 流石に浜の松全体を伐ろうというのでは ないそうだ。然し、いま番号をつけてある 部分だけでも伐ってしまえばもう日本の千 本松原ではあり得ないのである。 普通の平凡な松原になり終るのである。 なるほどこの見ごとな松の木のことであ る。 伐れば相当の金にはなるであろうこの美 しく茂った雑木も薪として役だつであろう。 然しその金は新にこれだけの松原を作る としての費用の何十分何百分の一に当る であろうか。 況んやこれを伐ってしまうには五日か十 日で済むであろう。 これだけに仕立てるとしたら果して何十年 何百年のタィムを要してかく成就するであろ うか。 噫、悲しむべき風説よ、どうかただの風説 として速かに通り過ぎて呉れ。 痛ましい計画よ、どうか夢みられた計画と してきよらかに流し去って呉れ。 わたしは此処に誰にとはなく、何処にとは なく、ただ親愛なる沼津千本松原のために 合掌してその無事を祈るのみである。 合掌。」 (八月十四日早暁稿) |
第二回抗議文 「……(前略)無論、松原全体を伐ろうどいう のではない。右云うた甲州街道から北寄りの沼 津市内に属する部分を伐ろうというのである。 然り而うして其処は実に東西四里にわたる松 原のうち最も老松に富み、最も雑木が茂り、最 も幅広く千本松原の眼目とも謂うべき位置に当 るのである。 此処を伐られてはもう千本松原は日本一の 松原ではなくなる。 普通の平凡な一松原となり終るのである。 流石に沼津も騒ぎ始めた。沼津として此処を 伐り払わるる事は全く眉を落し頭を剃りこぼた るるに等しい形になるのである。 また、静岡県としても此処を伐って幾らの銭を 獲んとしているのであろうか。幾らの銭のため に増誉上人以来幾百歳の歳月の結晶ともいう ベきこの老樹たちを犠牲にしようというのであ ろうか。 私は無論その松原の蔭に住む一私人として この事を嘆き悲しむが、そればかりではない、 比類なき自然のこの一つの美しさを眺め楽しむ 一公人として、またその美しさを歌い讃えて世 人と共に楽しもうとする一詩人として、限りなく 嘆き悲しむのである。 まったく此処が伐られたらば日本にはもう斯 の松原は見られないのである。豈其処の蔭に 住む一私人の嘆きのみならんやである。 静岡県にも県庁にも、また沼津市にも、具眼 の士のある事を信ずる。 而して眼前の些事に囚われず徐に百年の計 を建てて欲しいことを請い祈るものである。」 (九月六日、徐ろに揺るる老松の梢を仰ぎつつ) |