父 病 気 の た め 帰 省
明治四十五年 七月(1912)26歳
牧水は結婚二か月後に「チチキトクスグカエレ」の電 報を受取りました。 急いで帰省しました。 父の病気は案外軽くて安心しましたが、牧水の帰省 を待っていたのは父の病気だけでなく「親族会議」 でした。 直ちに会議が開かれて「父が病気で倒れたからとど まって村の小学校か村役場に勤めて家をたてよ」と皆 から強く要請されました。 牧水も父の病気が全快するまでは故郷に留まろうと は思いますが白眼視されている故郷では就職する気 になりません。 八月中句職を求めて美々津に一泊、都農に一泊、 宮崎に六泊してさがし求めましたが適当な職はありま せんでした。 牧水は毎日憂うつな日を送り、時折り生家の裏の 小高い丘にある現在歌碑になっている大石に座ぶ とんを持参して座して尾鈴山を真向いに眺めながら、 自分の将来に思い悩みました。 ふるさとの 尾鈴の山の かなしさよ 秋もかすみの たなびきて居り |
生家の裏山にある現在碑になっている大石 牧水生家 |
父 立蔵 両親の墓 |
「父の病気はいよいよ快くなって来つつあった。 そして来春になったら親子で上京して方々の大きな 病院を参観し、いろいろな酒とうまい料理とを漁りま わることなどを話し合っては子供のように喜んだりす るようになっていた。 ところが十一月十四日朝、二階の部屋に目をさまし た牧水が何心なく階下に降りて行くと、勝手の台所に 丹前を着た父が寝ている。 朝早くからどうしたのかと訊くと、なァに昨夜の飲み 過ぎだろうと母が傍からいうので大して気にせず、冗 談など言いかけながら朝食をすまし、毎朝の例のよ うに裏山の方に散歩に出て行った。 和田の越を越えて後ろの渓川の岸をぶらぶらと歩 いていると姪のきぬが泣き声を上げて呼びに来た。 驚いて馳けて帰った時は父はもう人事不省に陥っ ていた。 しがみついて呼びたててももう聞える風はなく、一 言も発せず口うつしに吹き込む水をも嚥み下さず、 牧水の膝によって、眼を瞑った。 医者が駈けつけて試みた注射も、更に効果がな かった。 息の絶えたのは十時四十分、脳溢血であったの だ。 職業が職業だったので、貧しいなかにも葬儀はか なり賑かであった。 そして家から程近い山裾の墓地に葬られた。 (中略) 行年六十八であった。」 |
父が死んだ直後の写真 左から牧水、姉シヅ、姪のはる、母マキ、姪のきぬ |
亡父の初七日のお寺まいりの晩のことについて牧水のす ぐ上の姉シヅは次のように話しました。 「初七日はすぐ親族会議となり皆が弟に前の二倍 も強く家に留まるようにせまるのです。弟は前話しま したように母の生活費は月々十円送る、用事のある ときはすぐ帰ってくるから東京にやってください、でな いと今まで勉強したことが水の泡となりますからと涙 を流して頭をたたみにすりつけるように願うので私 は弟が可愛想なので、『繁があれだけ言うのだから 何とかならんもんじやろかい』と言いましたら、『お前 が何を生意気なこと言うか、だまっておれ」と叱られ ました。」 牧水の悩みは一層深くなりました。 この頃の作歌は多くが破調の歌であります。 |
納戸の隅に折から 一挺の大鎌あり 汝が意志をまぐるなと いふがごとくに |