第 13 週 平成20年2月24日(日)〜平成20年3月1日(土) 

第14週の掲載予定日・・・平成20年3月2日(日)

白    雨
(9p目/10pの内)








 挿画 児玉悦夫
 野井印刷所の主人に校友会の財政状況と、いかに校友会雑誌が、
学校のみならず、地域の文化振興に有益であるか−。牧水得意の美
文を口語体にかえてくどいたが、相手の方が商売では一枚も二枚もう
わ手。一銭も引く顔じゃない。一部十二銭だと、一回五百部分だけで、
幹事会が決めた予算は十円の赤字になる。
 『それじゃ、また校友会で相談してきます』
 引きさがって、再度の交渉に備えることにした。
 帰りに、柳沢町の菊池秋四郎方に寄った。彼は野球部長だ。幹事
会の予算案には同じ不満を抱いている。大いにその非をならし、スター
ト早々から改革案を談じ合った。
 十一日は、放課後に各部長が博物館に集まった。予算の打ち合わ
せだ。若山雑誌部長、熱弁をふるって、部長連中、幹事を説得した。
 成果はあった。当初の思惑との差は天地ほどあるが、他部の事情も
考え合わせて諒解した。
 百十六円。幹事会の予算案を倍増しておつりがきた。
 その足でまた野井印刷所を問う。今度はすんなり一部あたり十二銭
で契約した。
 大見、阿南は、牧水の日ごろに似合わぬねばり強さと、ソロバン片
手の強談判ぶりに別の一面をのぞき見る思いだった。
 校友会雑誌は、いまはなき初代校長山崎庚午太郎が、着任早々の
事業として創刊したものだ。第一号が、二年前の三十四年二月に出
ている。
 山崎校長が、発刊の辞のはか、論説、学術、文芸欄に自ら寄稿し
て飾り、生徒らはその健筆ぶりに畏敬の念を一層深めた。牧水も短文
と和歌一二首、俳句二句を発表、教師、生徒に注目されたことは先に
述べた。
 第二号の発行は同年三月末。牧水は文章二篇と俳句三句を出した。
 だが、四月に思いがけなく山崎校長が急逝したことから、雑誌は二号
きりで休刊のやむなきに至った。
 そしてようやく第三号発行の端緒が見出されたのである。しかも牧
水が編集、発行の全責任を負うてのことである。
 牧水の胸になき山崎校長の気鋭の面影が去来したであろうことは、
容易に想像しうる。
 このあと、学業と新聞、雑誌への投稿。それに雑誌編集が加わって
牧水の毎日が多忙になる。部長、部員、一体になって精力を打ち込ん
だのだが、気負い過ぎが、かえって勇み足になったものか、いっこう
に発行に至らない。
 ようやく陽の目を見たのは三十七年三月。第二号から満三年ぶり。
中学卒業の年だった。
 一年後の発行になるのだが、話の流れからいってここで校友会雑
誌第三号の内容を紹介しておくほうが適当だろう。
 三年ぶりの復活。しかも、いまや文芸では教師も一目をおく牧水が
発行責任者。事実、印刷所との製作費の交渉から予算獲得、内容
の企画編集と、すべてを彼が切り回している。
 牧水自身の張り切りようが、大見、阿南のそれをはるかにしのい
でいたのは当然だった。その分、彼の執筆が多くなった。第二号が
山崎校長が各欄ひとり舞台の観を呈したのと趣を同じくする。
 年三回の計画が一回になったので、ページ数も倍増号になった。
牧水は、『なつ草』と題した文章、新体詩『野調』二篇、短歌『わか草』
十五百、俳句『春潮』八句のほか、『肥豊の旅』のタイトルで書いた
長篇の修学旅行記、大分地方の旅行記、野外演習の記。そして、
山崎前校長の追悼記まで掲載している。
 まさに大車輪の働きである。
 新体詩『野調』のうちの一篇 『野百合』

   空浅黄
      暁の星うきぬ
   醒めずや風
      満野の露はふかし
   森のいづこ
      夢に吹く鳩
   子をや呼ぶ
      妻をやしたふ
   いざ去なむ
      寵はみちぬ
   肩軽からうぞ
      母へみやげの
         百合多ければ


 この詩では、すでに『牧水』の号をもちいている。
 短歌 『わか草』 は若山繁の本名。

   春の日のひかりかぎろうわか草のひややけき石二千年

   けふもまた雪にくれたる山さとの里居の窓に鐘まちわぶる


 次に俳句 『春潮』 これは牧水。

   むくむくと起くる牛あり春の風

   乗合に僧おはしけり春の川


 先を急いでしまったが、牧水にはまた三十六年五月に引き返して
もらう。
 十六日から学校の制服が夏服にかわる。早速、昼食時間中に服
装検査がある。当時はいまの中、高校生など想像もつかぬほど服
装に学校も生徒も気を使った。
 夕刻、牧水は門馬をさそって早速、南町に夏の略帽を買いに行っ
た。
 二十五日は学校創立記念日。式のあと大運動会。夕方からは今
山へ恒例の提灯行列。町の名物行事になっていて見物人も多い。
白    雨
(10p目/10pの内)









 挿画  児玉悦夫
野 百 合
(1p目/12pの内)










挿画 児玉悦夫
 六月三日、このところ続いていた雨があがった。快晴である。
この朝はじめて靴(くつ)をはいて登校する。制服が和服から洋服に
改められたためだ。
 『心地よき事かな`日記に得意気に書いている。編上靴(へんじょ
うか)がぎゅうぎゅう、ぎょうさんな音を立てる。人がふりむく。おもは
ゆくもあれば誇らしくもある。
 また、この月から剣道と柔道が正課同様になる。全校生徒がい
ずれかの武道をたしなむよう指示される。
 牧水も生まれて初めて柔道をやってみた。七月七日。これまでに
竹刀(しない) は幾度か握ったことはある。柔道は全く経験がない。
 初体験は『痛ケレド面白イモノナリ』
 その前日には野球にも手を出している。八日はまたも雨、うっとお
しくてたまらない。
 『これも、小生が野球をやり、柔道をやったかも計られず候(そうろ
う)』

 柔道をはじめて体験した当日は、痛くても結構おもしろかった。だ
が、からだ中が痛くて身動きできぬ思いをするのは翌日ごろだ。
八日はふしぶしか痛むうえにカゼまでひいた。七月の暑さに羽織を
重ねる始末。泣きづらにハチであった。
 この月の十五日、佐久間方で旧師日吉昇の急逝を知る。
 日吉は牧水が二十九年五月、坪谷から出て延岡高等小学校に
入学、乙組に入れられたときの受け持ち訓導である。
 前に紹介したとおり、この地方随一の文章家として名が高かった
教育者である。牧水が同校を卒業するまでの一二年間、日吉が受
け持ちであった。
 牧水の文才を早くから認めていた。彼の将来に大きい影響を及ぼ
している。
 牧水は恩師の死を知り、悲嘆のあまりなかば夢中で愛宕山に登っ
た。うす曇りの山路は木々の青葉、草々のいきれでむすように暑い。
それを感じる余裕もなかった。
 頂上付近まで登りつめて、はるか日向灘に目を移す。水平線は
けぶって何の表情も持たない。晴れぬ心をいたむままに抱いて夕方
愛宕山のふもとに転居していた黒木藤大宅に帰った。ようよう−の
思いだった。

 『日吉昇先生の訃音を耳に致し候、先生は吾人の旧師、恩義ある
人にて、延岡地方の教育界に大影響を及ぼせし人にて候。今や逝
かる、人生意の如くならざる、何故に候にや』


 この日の日記の大半は痛哭の文字で埋まる。学期末試験も終わ
り、午前中は大浮かれに浮かれていた矢先の訃報であった。
 人生意の如くならざる。牧水にはじめて人の世の無常を感じさせ
た日吉の死であった。
 彼は三十六歳。これからの人だった。
 七月十八日から夏休み。空も晴れた。牧水の心も数日前、恩師の死に
泣いた日とは打って変わって晴れやかだった。
 通告簿(成績表)をみると、甲斐猛一、日高園助、百渓禄郎太に次いで
四番の成績だった。試験中は各課目とも自信がなかった。だが、ふたを
あけてみると案に相違の好席順。意気ようようと校門を出た。
 例によって正午には早くも延岡をあとにする。美々津の縁家にあたる福
田清といっしょに乗合馬車で美々津に向かう。
 福田家は牧水の祖母カメの縁につながる。カメは結婚当時は東郷村
下三箇の水野家にいた。だが、母がカメら子供を連れて再婚したもので、
美々津で生まれている。
 宮永真弓氏の近著『幻現の時計』(角川書店)では、文明評論家で東
大教授の福田歓一氏は、生まれは兵庫県だが、本家は美々津河口の福
田家。つまり福田清宅だとある。
 牧水とはその縁につながるわけだ。
 美々津ではまず福田宅に落ち着く。四月、新学期前にはじめて同家を
訪うてから二度目であった。
 二人で小野葉桜を下宿に訪う。夜は歌合わせになる。題は、この河口
一体に多い大小の島から島、野、百合、夏草などを選ぶ。
 美々津の島といえば、港の正面にあって白波くだく竜神ハエと七ツハエ
の二つの岩島が名高い。神武天皇ご東征のみぎり、この港から船出され
たとする伝説にちなんで、神武天皇御東遷二千六百年記念事業として、
竜神ハエに『御光の塔』が建設されたのが昭和九年九月である。
 美々津の灯台だ。燭光二千、光度八百九十カンデラ。港から約二十七
`沖を通る船まで灯台の光の恩恵をうけることができる。
 むろん牧水、葉桜らが歌合わせをした夜は灯台が建設される以前のこ
と。ただ、この二つの島の狭間を通って船出された神武天皇は再び美々
津港には帰られなかった。
 このため、漁船はもちろん一般の船もこの島の間はいまも通り抜けな
い。その伝説を彼らが知っていたとすれば、歌に詠み込まれたであろう。
惜しいことに、それらしき歌は現在残っていない。
 同夜は葉桜宅で午前一時ごろまで歌合わせ。あとは同家に泊ることに
なる。
 翌日は福田と河口左岸が海に突き出た権現崎にわたる。いま、この端
に歌碑が建っていて黒潮の香高い風に吹かれている。
 郷土史家黒木晩石氏らの呼びかけで、昭和三十九年二月に建設され
た。自然石に活字体で刻んだ一首は次の歌である。

    
海よかげれ水平線の拗(くろ)みより雲よ出で来て海わたれかし
                                     (みなかみ)


   
つづき 第14週の掲載予定日・・・平成20年3月2日(日)
野 百 合
(2p目/12pの内)








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