第 18 週 平成20年3月30日(日)〜平成20年4月5日(土)
第19週の掲載予定日・・・平成20年4月6日(日)
進 学 (7p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |
二月五日、校友会雑誌の編集ほとんど終わり、二、三日中には印刷所に持ち込むめどがついた。そう報告すると、校長もようやく笑顔をみせ、労をねぎらってくれた。 牧水ら雑誌部員もほっとして中町の印形屋に繰り出した。といっても菓子 屋だ。十二、三銭ほども食えば大変なおごりであった。 彼らにはまことに平穏なこの日だったが、彼らの日本は同日、重大な決定をしている。 北清事変(一九〇〇年)に参戦したロシアが、義和団鎮圧に名をかりて満州(中国東北部)に出兵したまま駐留軍の第二次撤兵を実行しない。満州の独占的支配と韓国進出の野心があらわであった。 一方、日本もこの地域に対して同じ意図を抱いている。そのため、駐留軍をめぐって日、露が対立、前年八月から数次にわたって交渉が行なわれてきた。 三十七年一月六日に駐日露公使口ーゼンが小村寿太郎外相にロシア側の最終案を提出すれば、日本も同月十二日、御前会議を開いて最終案を決定、ロシア側に提案した。 しかし、相方の提案が食い違うため、日本側からの督促に対してロシアからの回答がない。 ついに二月四日、御前会議を開いてロシアとの交渉を打ち切り、軍事行動で決着をつける重大決議をするに至った。一日おいて六日、栗野駐露公使にロシアに対する国交断絶を通告させたが、五日夜にはすでに軍隊に動員令がくだっていた。 牧水ら延岡の中学生の耳にも六日午後には 『ついに露国と国交断絶、皇国将兵に動員令下る』の重大ニュースが届いていた。 『昨夜、動員令下りたりとて、町内など大騒動なりしと。やるべし、やるべし、一思ひにやるべし』 六日の牧水の日記の文字は紙を突き破るいきおいだ。 その衝撃は即日延岡中学校をおそった。体操担任教諭の二宮治十郎も召集を受け、同日直ちに小倉に向かうことになった。 午後三時、あわただしく全校集会が講堂で聞かれた。校長に紹介されて壇上に直立不動の姿勢をとった二宮の言葉は悲壮であった。 『諸君健在なれ。生きて再び諸君と会うことはあるまい』。 集会のあと教師、生徒全員で大瀬橋まで二宮を見送った。二月の川風は身を切るように冷たい。改めて壮行の辞を述べる御手洗校長の声がりんとして大瀬の川面にひびいた。 『必ず凱旋されたい。勝って帰還されたい。万一、それなくんば、貴君は生きて再びこの地を踏まれなんと恵う。必ず勝って、延岡中学校に元気な姿を見せてもらいたい』。 牧水らは両の手を握りしめて聞いた。 |
動員された陸軍先遣部隊が八日、仁川に上陸を開始した。一方、連合艦隊は旅順港外の露艦隊を急襲、翌九日には仁川に停泊中の露艦二隻を撃沈した。ロシアに対する宣戦布告の詔勅が下ったのは十日であった。 日露戦争はこうして火ぶたを切った。だか、牧水は十二日になってようやく 『下る、終(つい)に宣戦の詔勅下る。快なるかな、快なるかな。仁川沖にて敵艦二隻を沈め、旅順を夜襲して、旗艦を初め三隻をやっつけてやりたりと』。と日記に記している。 この日、二時限目が始まるころ、校内に非常ラッパが鳴りひびいた。全校生徒が講堂に集合すると、校長から日露開戦の経緯の説明と、戦時下の中学生の心構えについて訓示があった。 生徒も緊張はするが、何か浮き浮きした気分である。牧水は『これで、臨時即退だな』と内心ほくそえんだがなんのことはない。五時限まで平常通りの授業になった。 翌日も非常ラッパで集合。校長が宣戦の詔勅を朗読したあと、海戦のわが大勝を報告する。全校生徒が万歳を三唱、気勢大いにあがった。 銃後の覚悟を固めるためー近く軍事大演習を行なうと言う。前もって一年から五年生までを甲乙両組に分け、参謀、中、小、分隊長を選挙した。若山雑誌部長は当然のこととして従軍記者に任ぜられた。 だが、戦果は日本側だけにあがったわけてはない。 十一日には、津軽海域で貨客船『名古浦丸』が露軍艦に撃沈された。小樽地方の人心が動揺、米価は急騰し、地元銀行では取り付け騒ぎが起きた。牧水らは無論知らない。 その夜は、今山大師堂に登って曙会の大会を開いた。参加者十六人。なかなかの盛会で、散会したのは午前零時過ぎだった。 戦時下とは言え、まだまだ銃後はのんびりしたものだった。翌日の日曜日は級友の日高園肋、河野眠花とまた今山に登った。寒風を避けた日だまりの枯れ草に寝ころんで二時間近くも語り合った。 戦争談もあったか、彼らにとって直接の話題はなんといっても進学の件たっ た。特に牧水は十日夜、意を決して坪谷の両親あての手紙を書いてその意ふを伝えることにした。 十一日朝投函したばかりだからもちろん両親の反応を知るよしもない。それだけに気がもめる。 日高は紬島の出身、家業の回船問屋を継ぐつもりで神戸高商に進学する考えだ。無論両親も賛成で問題はない。 話し手はもっぱら牧水だった。 |
進 学 (8p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |
進 学 (9p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |
二月十六日は未明から正午まで延岡の伊達から岡富にかりての、一帯を戦域に、野外発火大演習が行なわれた。 全校生徒を一年生から五年生まで、甲組を南軍、乙組を北軍に分けて編成、攻防戦を展開した。牧水は北軍の従軍記者、午前三時半には起床、四時過ぎには登校した。 寒さ最も厳しいころだが、開戦したばかりの日露戦争の捷報が相次いでいる。白い息を吐く生徒たちの意気は盛んだ。実戦さながらの演習になった。 時期的にもタイミングよい企画だった。町内の評判も『戦時下の中学校として適切な行事だ』と好ましかった。 午前六時、伊達町から戦端は聞かれた。牧水の北軍は防禦軍なのて戦っては退いた。大瀬橋を破壊して追撃する南軍をかわそうとしたが果たせず、城山の南ふもと、桜小路一帯て大激戦、さらに板田橋を渡ったところで休戦ラッパか嗚りひびいた。 牧水は腕に『記者』の腕章をつけて戦闘の間を駆け回って取材、すこぶる得意であった。 正午に帰校、そのまま解散した。朝が早かったからと言うことで、午後三時には夕食、あとは六時過ぎまで寝入った。 日露戦争の方は二月十一日に大本営を宮中に設置、二十一日には参謀本部か臨時軍用鉄道監部を編成して京城−新義州間の鉄道敷設工事にあたらせた。長期戦化の雲行きをみせてきている。 延岡町内でも戦況の推移に伴っていよいよ戦特色が濃くなり、出征兵士を送る旗の行列が各所で見られた。 延岡中学校でも、御手洗校長が昼時間に全校生徒を集めて特別訓示した。 『諸君、わが軍は開戦以来次々に敵露軍を痛めつけてきているが、戦線はさらに拡大の様相をみせてきている。長期戦になれば、軍需物資が大量に必要になる。戦地の将兵路上の決死の働きにこたえる国民のつとめは、まず第一にこの物資の確保にある。それには国民が、日常生活を節倹し、戦地に送る物資を確保しなければならない』。 牧水は坪谷小学校時代、日清戦役のさいに 『ぜいたく追放』の訓示を担任教師らに聞いている。勢い余って『指輪』騒動のおまけまでついた思い出がある。 今度もまた『ぜいたくは敵』を校長自ら訓示する。『マンジュウ攻撃もぜいたくかな?』級友同士でひじをつつき合った。 校長訓示かあった日、どういうわけか、体操の時間に校医の四倉医師から 『花柳病』について衛生講話を聞いた。 彼らには、校長訓示の節倹より、四倉校医の衛生講話に興味があった。 |
二月下旬になって牧水の進学問題にもいよいよ決着をつけねばならない時期になった。 十一日に父母あてに相談の手紙を出した。十四日に返事があったが、『なぜ医学を捨てて文学専攻の道を選ぶのか、納得がいかない』旨の強い不満をあらわにした文面だった。 その後、数度にわたって便りを出して弁明につとめ・だ。 そのー方ては、柳田友麿ら教諭の自宅をたずねて祖談もした。柳田と同じ英語担任の井上らは、これからは西洋文学をやるべきて、そのためにも早稲田大学の英文科に入ってはどうか−と繰り返しすすめるだけだった。 親友の直井敬三と一夜、ほとんど徹夜で語り合ったこともある。彼もまた進学校を決めかねて悩んている一人たった。 「敬やんよ。オレは金の工面さえつけば早稲田に行きたい。柳田先生もそういってくれている。おメエもそうせんか。これからは西洋文学の時代じゃがー』 柳田の説を受け売りして彼を誘った。 坪谷だけでなく都農の河野佐太郎、河内の今西吉郎にも手紙で相談した。 三月二日に出した河野あての手紙に彼の当時の心情が素直にあらわれている。 彼の『金の工面』は河野以外にない。立蔵にはすでに経済的な力はない。叔父純曽も医院は開いているか、助勢の余裕はない。今西もまた牧水の文学的才能を理解はしても、校長の給料、それも十一人の子持ちであってみれば、無心をいう方が無理というものだ。 結局は、手広く商売している河野のそでにすがるほかはなかった。 『今より二十日間もせば、落第せぬ以上はこの中学を出でねばならず候。サテ学校を出て如何にすべきか、小生甚だ迷ひ居り候。小生の好み且つ出来る学問へ進まむとせぱ、先づ文学の方に候。多くの先生や知人などとも相談せし結果、東京の早稲田入学といふが一番小生に適当して、よろしからむとの事にて御座候。 早稲田大学といふは年限四ケ年半にして、そこを卒業せし上は、少くとも月に六十円内外の月給を得らるべき事に御座候。斯く、今より進み行くべき学校は定り候へ供、定まらぬは例の学資金の義に有之。 こればかりは小生いかやうとも到す事叶はずして、この数日間を狂人のやうに身心を苦しめ居り申候。親は御存じの老人の上に極めての貧乏にて、親類と申してもいづれも似たり寄ったりの貧乏揃ひにて、ただ力にお頼り申すは兄上さまのみに候。 今までとても、一通りな・りぬお世話様に相成りし上、斯かる事お願ひ申すはあまりに鉄面皮奴と考へられ候もはからえず候へ共。 つづき 第19週の掲載予定日・・・平成20年4月6日(日) |
進 学 (10p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |