第 17 週 平成20年3月23日(日)〜平成20年3月29日(土) 
第18週の掲載予定日・・・平成20年3月30日(日)

進   学
(3p目/14pの内)








 挿画 児玉悦夫
 坪谷に帰ってからも毎日銃を肩に冬枯れの山を歩き回っている。
 両親に相談しなければならない重大要件を胸にかかえている。だが、
容易に切り出せる事柄ではない。切端つまった思いと、一寸延ばしに延ば
したい気持ちが交錯する。
 山を歩く間中もこの悩みは念頭から離れない。だが、小鳥を目にし、銃を
構えた一瞬から無心になれる。
 標的にされる小さな生命には気の毒だが、牧水にとっては生涯初めての
悩みごとである。許してもらわねばなるまい.。
 坪谷に帰った翌早朝は、霜を踏んで後山から一帯を回った。寺の従弟稔
がついてきた。この日は午前中にヒヨ一羽、カシドリ一羽の獲物があった。
その翌月にもカシドリ二羽を仕止めている。東郷は、小鳥まで都農と違っ
ておうようであるらしい。
 二十八日午後には、河内から義兄今西吾郎が年末のあいさつにやって
きた。子供一人を連れてきて、大みそかまで泊って帰る。
 二日目の夜は、牧水は今西をさそって村の昌福寺に住職金田大珍をた
ずねた。金田はマキの異母妹の夫で、牧水の叔父になる。一夜、三人で
話し合ったが、牧水は叔父と義兄に『まだ父母には内緒にしてほしい』と念
を押したうえで、胸のこだわりを吐き出した。早稲田進学の一件だ。
 今西は、柳ケ迫小学校長だったころ、冗談半分に中学生の牧水に天長
節(当時は十一月三日) の式辞の代作を頼んだことがある。
 出来上がった式辞が余りにも名文なのに舌を巻いて以来、彼の文学的
才能の豊かさを認め、こと文芸については、はるか年下の牧水に一目おく
傾向さえあった。
 金田は、新刊の雑誌や新聞が届くと、若山家に持って来て義姉マキや
めいトモなどに小説を読んできかせていた。幼かった牧水も、何やら胸とき
めくものを覚えて叔父の朗読に聞き入ったものだった。
 言わば、彼は村の文化人だった。
 二人は牧水の話を聞き終わって太いため息をついた。才のある牧水の
文学志望には賛成だ。できればかなえてやりたい。
 だが、老いた立蔵、マキ夫妻の心情を思うとちゅうちょせざるをえない。
そのうえ、河野佐太郎夫妻の存在も大きくのしかかる。
 『繁よ。おメ工の気持ちはようわかるが、こりゃホネぞ。せかずにじっくり
時機をみて話を出してみるこつじゃ。せいたら元も子もなくなるー』
 結論は出ぬままにその夜は別れた。
 牧水は二十九日までに持参の弾丸を撃ち尽した。白梅に手紙を出したら
三十一日朝、早速、弾丸つめ道具を送ってくれた。
 明けて三十七年元旦。両親に最も早く相談すべき大事をそのままに持
ち越した。後山に登って初日の出に手を合わせたものの、祈る心も複雑
だった。
 朝のうちにその想いを日記につづる。
 鴫呼、また立に年を迎ふ、この明治三十七年は、吾にとりてとにかく普
通ならぬ年なるべく想はるゝなり。三百六十有余頁のこの日記が、果して
如何なる記事を以て満たされむとする、見物ならずや『見物ならずや』と、
他人事のように突きはなして書いてはいるが、とてもそんな余裕はない。
 この日も、『元日早々から殺生なんぞ』と、顔をしかめるマキにかくれて
昼から近くの宮の谷に銃をたずさえて行き、カシドリ一羽手にして帰宅し
た。
 二日も、まだ床の中にいるうちに昌福寺の従弟に起こされて狩りに行く。
ただし獲物は皆無。年賀状を見たり、書いたりで一日を過ごした。三日も
また変わらない。
 平賀春郊(財蔵)からのたよりに、牧水の歌四首が一月一日号の雑誌
『新声』に掲載されている−と知らせてあった。
 『新声』には、三十五年六月十五日号に一首『くれなゐのー』が掲載され
たのが初めで、ついで十月二十三日号と十二月号に各一首ずつがのって
いる。
 翌三十六年は八月号に
    『迫りくる花の匂ひや水の香やゆふべ森かげうたをもだしぬ』
が一首掲載されるにとどまった。
 両年に掲載された四首はいずれも金子薫園の選歌によるものだった。
 『新声』は、その後、経営者がかわり、歌壇の選者も三十六年十一月号
から金子に代わって尾上柴舟が担当した。つまり、牧水の四首は尾上柴
舟選によるものだった。

 おのづから胸に合する罪の手や沈黙(しじま)の秋の夜は更けにけり

 梢たかき銀杏の寺のかね消えてねむるに似たり秋のひと村

 とても世の秋は寂しく冷たきにふかれて風の国に去なばや

 ほのぼのと花野の朝はあけそめて霜に別るるつばさ白き神

 その後、『新声』には、二月号に三首、四月号に四首掲載されるが、この
年の五月、早稲田大学に入った牧水が選者尾上柴舟に初めて会うことに
なる。
 牧水研究の第一人者である大悟法利雄氏は『若山牧水新研究』で、牧
水初期の歌の大部分は『新声』に発表されている。その意味から牧水は
『新声』出身の歌人といってよい−と述べている。
 この年は柴舟との歌の出会いで始まった。  
進   学
(4p目/14pの内)









 挿画  児玉悦夫
進   学
(5p目/14pの内)










挿画 児玉悦夫
 冬休みは十日まで。いまと比べるとかなりながい。それに進学を控えて
いながら随分とのんびりしている。
 日記を見る限り、牧水はただの一日も教科書を開いていない。鉄砲三
昧だ。めいの絹まで連れ出して山歩きをしている。それにつれて腕もあ
がったものか、カシドリ、ヒヨ、ウズラなどを仕止めて、手ぶらで帰ること
はなくなった。
 キジ、カモもねらったのだが、これはまだ手に負えなかった。
 八日には、牧水にとっては幼い日の思い出深い五本松を越えて西郷
村小川に行った。
 歌友の小野葉桜、紫苑をたずねて、さらに田代まで足をのばして歌会
を開いた。同夜は葉桜宅に泊り、翌早朝、今度はふたりを無理にさそっ
て五本松を越えて坪谷に帰ってきた。夜はまた牧水の部屋で歌会。
さらに十日も朝から歌会になったが、さすがに二人は牧水が引きとめる
のを振り切って帰って行った。
 坪谷にいても語る相手がいない。人恋いしさがつのるばかりだった。
 十三日の朝八時ごろに坪谷を立ち途中、友だちと連れになりながら
延岡に着いたのは午後五時前。日暮れに近かった。
 夜は早速に白梅をたずねたが不在。直井を問うたあと佐久間宅に寄
って帰ってきた。
 じっとしておれぬ気持だった。
 四日欠席して十四日に登校した。すでに授業は始まっている。勝手に
冬休みを延長したのは牧水だけではない。他にも仲間がいて、一様に
 『物理が進んでいてわからん』
 など、しきりに頭をかいている。
 年末の御手洗校長の激励も全生徒に影響を及ぼすには至らなかった。
 その校長にその日二度もよばれた。校友会雑誌がまだ出ていない。
牧水が雑誌部長に選ばれたのが前年五月八日。どうなっているのか経
過を問われた。
 その場は『もうほとんど編集をすましております』と、つくろったが、翌日
もまた呼び出しをくった。さすがに十六日には久しぶりに編集部員を集め
て発行を急ぐことにした。
 この日の日記に

 この日頃より爾来のわが佳号野百合てふを中止して、牧水としばし仮
の名を結ぶべく余儀なくせられ候


 とある。
 『牧水』が、母の名マキから『牧』を、生家の前を流れ、毎夏鮎釣りを楽
しんできた坪谷川から『水』を取った号であることは知られている。『水』
は南山、白雨の号とも関連がある。変遷をたどった雅号だが、『牧水』に
たどりついて終生の号になる。
 御手洗校長に督促されて若山部長ら校友会雑誌部員一同、これまでの
遅れを取り戻すためあわてて原稿の整理に精を出した。
 二十一日は、体操の時間中、四、五年生は船倉から学校までボートを
運ぶことになったが、雑誌部員は特別免除。編集に専念することができ
た。学校側の雑誌発行に対する熱意がうかがわれる。
 生徒の投稿は、美文、短歌、俳句、詩、紀行文、論文?と多彩である。
そのなかの短歌、詩、俳句は、中央の文芸雑誌にならって選を設けるこ
とにした。部長の発案だ。
 詩、短歌は牧水、阿南卓、大見達也が受け持った。それに不満の意見
は出まい。ただし俳句の選はこころもとない。
 評議の結果、英語担任の柳田友麿教諭に選をたのんだ。国語担任に
依頼するのが穏当か−など、一応は検討したが、文芸については柳田が
一枚も二枚も上、と結論。
 『義理より実力』
 牧水が、断をくだして柳田に決まった。
 『野虹』会員らはこの柳田、黒木藤太を囲む文芸の集まりを開いている。
校門を出れば先生というより『兄貴分』と慕う彼らであった。特に文芸の話
になると、牧水らも師に譲らぬいっぱしの意見を吐いた。
 三十一日の休日にも、牧水、猪狩、大見、河野眠花、二学年下の新会員
小林亮四郎(白扇)が連れ立って南町の柳田宅をたずねた。
 さっそく歌会を開くことになり、春江(のちの平賀春郊)も呼んだ。題は『春
の朝』『山』『雲』の三題、それぞれに筆をなめなめ苦吟する。
 しょっちゅう来襲する中学生どもに柳田の若い妻が時にはおかんむりに
なる。五、六日前の昼、あわよくばふるまいを、と期待して訪れた牧水と猪
狩を『主人はいません』とにべなくかえしたばかりだ。
 牧水らはこの日は少々鼻白む思いで訪問したのだが、妻君は案に相違
のご気嫌。柳田が言いつける前に昼食の膳をそろえてくれた。
 午後は黒木、笹井の両教諭も座に加わって新たに題七つを設けて競詠
盛会になった。
 当時の教師と生徒とのふれあいがしのばれる。柳田を俳句選者に選ん
だのもこうした関係からだった。
 その前日は、牧水は仲間二人を誘って浜町の旧友山本七郎を問うた。
彼はあいにく不在だったが、長浜で遊んでいるうちに駆けつけてくれた。
四年振りの顔合わせだった。
 帰りに山本宅に寄ったら、母親が唐芋をふかして馳走してくれたうえ、
土産までもらった。山本は後の金米糠じいさん″だ。
 この日のことを、牧水は忘れず、中学生時代をなつかしむ思い出として
いる。

   
つづき 第18週の掲載予定日・・・平成20年3月30日(日)
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(6p目/14pの内)








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