第 16 週 平成20年3月16日(日)〜平成20年3月22日(土)
第17週の掲載予定日・・・平成20年3月23日(日)
野 百 合 (11p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |
坪谷では近くの山や川をわが庭のように遊び歩いた。 幼いころから、父に連れられて釣りを楽しみ、母に伴われて山菜やクリ、 山芋狩りで一日を過ごす日もあった。 だが、銃猟の経験はない。白梅にすすめられてもおいそれと手を出しか ねたが、彼の弟まで小鳥に銃口を向けるのをみては、引っ込みがつかな い。一発。ただ一発撃ってみた。 ホホジロ四、五羽などの獲物を持って帰ったが、牧水の手にかかる獲物 はなかった。 夕刻、延岡の青年歌人来るIを聞いて宮水の『穂峰』と号する歌人が猪狩 宅をたずねてきた。初対面だったが、同好のよしみ。すぐに打ちとけて文 芸談がはずんだ。 後年には、一線を画して決して心の奥まで踏み込ませなかった牧水だが 若い頃にはだれかれの差別なく付き合った。 多くの若い歌人が彼の周囲に集まってきたのも、彼の人あたりのよさに 由来した。 十八日は午前八時には猪狩宅を出た。昨夜、同家に泊り込むことになっ た穂峰とは、五ヶ瀬川の船着場で別れた。彼は足が不自由だった。手を ひらひら振りながら山路を登って行った。一晩きりの付き合いだが、何か 心ひかれる味わいを持つ山の歌人だった。 帰りは舟旅になった。このあたりの五ヶ瀬川の流れは急であった。牧水 がよく下った東郷の船戸から美々津港までの耳川は、この急流に比べれ ば、淵にもひとしかった。 白梅が銃を持って乗った。岩井川から城鉱山までの岩井川便船から水 鳥を撃ったが、激しく揺れる舟のせいか仕損じた。 城鉱山から乗り継いだ延岡便船からもねらった。五位サギ三羽、名も知 らぬ水鳥一羽を仕止めた。やや、流れがゆるくなったためか、一発も失敗 はなかった。 午後六時に延岡の黒木宅に帰り着いた。岩井川の三日間の“遠足”牧 水にとって、大名旅行のような恵まれた埠てあった。 この月の終わりから十一月の初めにかけて最後の修学旅行があった。 岩井川行きのあとは、連日、試験試験に頭を痛めたものの苦にはなら なかった。別府から大分、臼杵、佐伯への旅行の話で心はずんでいたた めだ。 十月二十八日。授業を正午で終わり、午後二時四十分には隊列を撃え て校門を出た。土々呂港に向かい、同六時発の『加茂川丸』に乗船した。 空は晴れ、別府港に向かう海路も日向灘は思いのほかないでいた。 南北浦沖の漁火が暗い波間に美しかった。 |
加茂川丸が豊後水道にかかるころからにわかに風波強まった。高い 波しぶきが甲板に散り、船体を左右に揺さぶる。 佐伯、臼杵、佐賀ノ関の沖は暗いうちに過ぎた。船酔いで眠れぬ生 徒が多かった。 別府湾に入るころようやく夜が明けた。途中の波風はうそのようにと れ、港内は縮面のようなさざ波を朝の風が作っていた。 別府に上陸後、牛めし屋で腹ごしらえして市中見物もそこそこに大 分に向かった。竹町の岡田屋で旅の荷物を置いて県立大分中学校を 訪問した。 同校との親善野球が、修学旅行中の楽しみになっていた。選手より 応援団の方がハッスルするのはバンカラ中学生のならい。 選手の白熱したプレーより、激しいヤジの応酬に引率教師がはらは らするうちに試合終了。14対10で延岡中学校が勝った。遠征の面目 を保ったわけだ。 このあと、佐賀ノ関、臼杵、佐伯と海岸ぞいの陸路をたどって十一月 二日に帰延した。 中学五年生の二学期も余すところ僅かになった。ほぼ毎日のように 各科の試験が続いた。卒業後の進学校問題をふくめて、校長以下担 任教諭が牧水らの成績に神経を使っている。 十一月下旬には、現在の門川町の河内にいる次姉トモの小学校長 今西吾郎宅を訪れ、二夜を過ごす。正午に学校を出て下宿で軽装にな り、徒歩で河内に向かった。 走るように歩いて土々呂のはずれでは、延岡に下宿している都農、 美々津の帰省組を追い越した。門川から折れて五十鈴川ぞいに細い 道を急いだ。 河内に着いたのが午後六時前。五時間近くほとんど歩きづめに走い た勘定だ。家族全員喜んでむかえてくれた。 今西家には稔をかしらに次々に子供が生まれる。ついには十一人 の子福者になる。 半面、小学校校長の月給では大家族をかかえて、経済的に裕福と は言えない。それでも牧水は、今西家を訪れると心豊かになった。囲 炉裏火をかこむだんらんに似たあたたかみが、四季を通して家中に みなぎっていた。 翌日は、当地の級友黒木政一郎宅を問うなどして過ごし、夜は例に よって幼い兄弟たちに昔話をしてやった。一二日目の午後、黒木と連 れ立って延岡に向かう。 着いたのが、やはり六時ごろ。夕食後、疲れた足をひきずるように 新町の幸栄座に行った。日清戦争の軍談がかかっている。眠気を覚 えさせない好演だった。 軍談かたりは美富一調と言った。気に入ったので翌日午後に一席、 夜もまたたまたま来延していた猪狩の父親や級友ら三、四人で軍談 聞きに幸栄座に通う執心ぶりだった。 |
野 百 合 (12p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |
進 学 (1p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |
牧水はそのころ、短歌のほかに小説にも興味を抱いていた。 自信作『兄さむし』を、中学世界臨時増刊号の懸賞小説に応募した。 だが、六十点以上の得点作が掲載されたのに、牧水の『兄さむし』は五 十八点。二点差で没になった。 『遺恨十年、一筆を磨かざるべからず』 十一月二十六日の日記で、悔やしがっている。短歌では、ゆくところ 可ならざるなき、の観だったが、小説では壁にぶつかった。 以後、発奮して幾夜か、小説にいどんでいる。だが、思いつきでいい 作品が生まれるはずはなく、雑誌に投稿した形跡もない。 十二月に入って上級学校進学の話は日一日熱を帯びてくる。十六日 の朝礼では、校長が直々に訓示した。 『諸君、諸君はわが県立延岡中学校の栄誉ある第一回生である。 本校の歴史は諸君自身の手によって第一ページが飾られる。伝統また しかりである。一人でも多く上級学校に進学し、国家有為の人物たるべ く知識を深め、人格を磨いてもらいたい』 『そのためには、来春の入学試験に備えていま、懸命に勉強すべきで ある。学校としても、全教諭が全力を傾けて諸君の指導にあたる。あと に続く延岡中学校後輩のためにも、諸君の奮励努力に期待する』 『学業成績(入学準備のため)の奨励で、校長狂者の如くに候』。(牧水 日記) 翌十七日には、五年生全員に、上級学校進学希望の有無、志望校な ど担任を通じて校長に申告するよう達しがあった。 二十日には、申告書に基づく進学相談が校長室であった。 牧水自身はー。はじめは若山医院三代目を継ぐため長崎医専に行く つもりで、友人とも話し合っていた。だが、中央の文芸誌、地元の日州 独立新聞などで、彼の文学的才能が具体的事実になって認められるよ うになって考えが揺らいできた。 従兄冰花の影響のはか、黒木、柳田ら教諭の励ましも医学への志望 をにぶらすことになった。 この日、午前中に御手洗校長に会い、進学志望について考えを述べ た。このときはすでに彼自身としては文科系大学志望に意志が固まって いた。 未決定なのは志望校だが、ひそかに神宮皇学館か早稲田大学を頭 に描いていた。 御手洗校長も牧水の文学的才能をつとに評価している。文系志望に は賛成だ。各大学の内容、学資など詳細に説明したうえで、できるなら 早稲田に進むべきだーとすすめた。 牧水の早稲田進学の志望はこの時点で明確になった。 |
御手洗校長の話で早稲田進学の志望が固まったとは言え、これはあく まで牧水の希望″に過ぎない。 両親や河野佐太郎ら親族のほとんどは、彼が医者を目ざして医科系の 学校に進むものと信じ切っている。 それをどう説得して許しを得るか。母や河野の性格を知りすぎるほど知っ ているから牧水の胸は痛い。ひとり黒い秘密を抱いているような思いであ った。 二十三日から冬休み。例によって早々に延岡を立つ。河野家から『二十 三日には母様も都農に来られる。真直ぐにうちにくるよう』連絡があってい た。 朝、延岡を二番の乗合馬車に乗った。途中、美々津の福田宅にちょっと 顔を見せ、午後二時には都農に着いた。 マキは一足先に河野宅に着いて待っていた。いつもの通り、耳川を舟で 下って美々津から一馬車早い乗合で来た・・と言う。 マキは長姉ス工と佐太郎の河野夫婦を何かとたよりにしている。たがい に訪れることも多かった。今度の訪問もさしたる用件があってのことでは ない。 『繁と一緒に二、三日遊んで帰ればー』 の誘いに気がねなく従ったまでだ。 その晩は、都農の劇場でみんなして観劇。新演劇という劇団だが、芝居 はつまらない。『三つ子だましだね』と、鼻に小じわを寄せたほどだった。 翌日は佐太郎とハト撃ちに出かけた。 実は十月中旬、岩井川の猪狩白梅の家をたずねて三日間楽しんだおり に初めて銃を手にした。舟中から水鳥をねらうなどの思わぬ経験をしたこ とから、銃猟がやみつきになっていた。 冬休み中、鳥撃ちを楽しむために白梅から銃を借りてきている。どちらか というと仕事一筋の義兄佐太郎を、前夜そそのかして連れ出したものだ。 だが、なべかま持たずに渡世する野鳥。にわか仕立ての猟師の手には 負えない。獲物ゼロで帰ってマキやス工にからかわれた。 その埋め合わせでもあるまいが、夜はまたバカにされに芝居見に連れ 立って行った。 翌々日は佐太郎、マキらに相伴して不動様参りに行った。連れの一人 が病弱なところから平癒祈願のためだった。このときも猟銃携行。シギを 見つけたが、銃を構えぬうちに飛び立った。馬車の駐車場でみんな“て一 杯傾けて帰った。せめてのうさばらし?だった。 二十七日は、さすがに母子連れ立って坪谷に帰った。美々津から山陰 までは高瀬舟で耳川を上る。途中、水鳥を撃ったが、冠嶽に銃声が空しく こだましただけだった。 つづき 第17週の掲載予定日・・・平成20年3月23日(日) |
進 学 (2p目/14pの内) 挿画 児玉悦夫 |