第 22 週 平成20年4月27日(日)〜平成20年5月3日(土)
第23週の掲載予定日・・・平成20年5月4日(日)
早稲田入学 (5p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
元右衛門は従兄吉五郎にどこまでもついて行く気だった。村はずれの三差路まできたらそれまで握ってくれていた手をはなして吉五郎が静かに言った。 『元よ、兄ちゃんはすぐ帰ってくるからお前はここから帰れ。おとなしくしときゃ土産を買ってきてやるからな』 いくら泣いてすがってもうんとは言ってくれなかった。そしてずんずん歩いて行った。 その日は雨だった。吉五郎は蓑笠をつけていた。 『…いまでん、吉五郎兄の後ろ姿をよう忘れんよ』 牧水を、別れた三差路まで案内して吉左衛門は言った。その声はくぐもっていた。 老人が指さす道路は風除けの生垣をめぐらした農家の横から右に切れていた。吉五郎は、健海と名を改めてからも、その角を曲がって姿を現わすことはついになかった。 神米金は武蔵野のただ中にある。広々とした田畑とひょろひょろと高い木立ち。それにわらぶきの農家が点在していた。 牧水が訪れた日は礪れていた。 だが、見えるはずの富士は全身に春がすみをまとって牧水の目に映らなかった。 牧水は日帰りの予定だった。だが、吉左衛門が家族して引きとめる。牧水もまた、吉左衝門が遠い記憶をたどって語る若き日の健海の人となりや逸話に興味をもってきていた。一晩厄介になることに決まった。 四月下旬といっても夜はまだ暖気が欲しい。囲炉裏には埋め火があった。吉左衛門は鉄火ばLで燥(おき)をくずしたり、集めたりしながら話は尽きなかった。 息子の久三郎も初めて聞く話が多いと見えて深夜まで付き合った。 『ご馳走とてないがー』 久三郎の妻が用意してくれた夕げの膳は義理にも豊かとは言えなかった。だが、牧水は胸をあつくしてはしをとった。 これが血というものだろうか−。 夜明け近くなって布団にくるまった。カビくさく綿がところどころ固まって寝心地が悪かった。いつまでも寝つかれなかった。 とろとろまどろんだと思ったらもう翌朝を迎えた。 再訪を約して別れてきた。前日と同じように所沢駅までの田園の中の道を歩いた。 道のかたわらに水仙がたよりなげに花をつけていた。一輪とって胸にさして駅に急いだ。きょうも富士は姿を見せない。 見えない富士に向かって探呼吸した。それからプラットホームに出て行った。 坪谷の両親に昨日から今日にかけての始終を報告した。水仙は日記帳にはさんでおいた。 |
そのころ延岡、いや宮崎でも牧水のことが話題になっていた。 神米金をたずねた日の前日、四月二十一日に大見達也から日州独立新聞が届いていた。四月十六日付け同紙の三面の広告欄に次の広告が掲載してあった。 報告書 宮崎県東臼杵郡東郷村大字坪谷 村壱番号 若山立蔵男 同 繁 当拾九年八カ月 右者宮崎県立延岡中学校本年四月卒業致候ニ付同月五目東京市二勉強ノ為メ出発候間右ハ諸君ニ謹告致候也 『報告書』と『同繁』だけが四号活字、他は五号活字が使ってあった。 牧水にはもちろん掲載者の心当たりはない。大見の手紙だと歌仲間や同窓生の間でもそのせんさくで持ち切りだ−とある。 『なかには、繁やんが自ら筆をとりたまうたものにや−の評判も立ちおり…』 と、ひやかしているから思わず苦笑した。 だれのいたずらか。結構広告料もかかるはずなのにと、だれそれの顔を思い浮かべたが、確かと想像される人物にはたどりつかなかった。本気でせんさくする気もなかった。 翌日は神米金行きの疲れが残っている。下宿でどろどろしているつもりのところへ、松崎重教がたずねてきた。一週間前から彼との間で手紙の往復があった。そのうち遊びに来る−と言ってあったが、早稲田の休日を知ってやってきたものだった。 『おい、こんないい日和に、家にいるなんて君らしくもない。出ようや』 聞くと、先日の風雨で花びら一つあるまいと思っていたのに、荒川堤の八重桜がいま満開だ。花見に行こうーと言う。 坪谷の家の門の傍の八重桜も、山桜や吉野桜に比べて開花が遅れる。少々時期はずれの花見を楽しんだものだ。 荒川堤の八重桜なら風情もひとしおだろうと、連れ立って下宿を出た。いったん神田の山崎方に寄って日本橋に回り、そこから電車で浅草に出た。 上野公園内は相変らずの喧噪だ。俗塵をさける、とロの中で強がりながら人混みを通りぬけたら吾妻橋だった。 橋の上にこ.ざをしいた幾組かの物乞いがいて、あわれな声で通行人のあわれみをかっている。橋のたもとには居酒屋と汁粉屋ののれんが川風になぶられていた。 吾妻橋から千住大橋まで川蒸気に乗った。船上から眺める向島の若葉が見事だった。 上陸しておよそ二里はども荒川堤を歩いた。桜の下の二合ぴんの酒は格別の味がした。 |
早稲田入学 (6p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
早稲田入学 (7p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
四月、五月は人の動きが多い。それが大学や高校、専門学校の入学適齢の若者たちだと送ったり迎えたりの毎日になる。 牧水の下宿にも二十七日には細島の目高園助が上京してきた。新橋駅まで迎えに行った。園助には世話になっている。長旅で疲れているだろうと、下宿に風呂を頼んだ。 『昼間っから!』 おかみが口をとがらせたが、それでも帰ったら用意がしてあった。 夕方からは日高を神田かいわいに案内した。日に一回は近辺を歩いているから町の事情はおおよそつかんでいる。まずミルクホールに連れて行った。 背の高いコップについだミルクと木村屋のパンを皿に盛ってきた。ワッフル、束髪パン、アンパン、木の葉パンなど菓子パンが幾種類もある。 『繁やん、中町の印形屋とは月とスッポンじゃの』 日高が首をすくめて言った。ついでにクリームを化粧に使った西洋菓子も注文した。 牧水が先輩ぶってみせている。 古本屋をひやかして回ったらまた腹が減ってきた。汁粉屋攻撃と思ったが、日高はうどんがいいと言う。 そば屋ののれんをくぐってうどんを注文したらないと言う。東京じゃそば屋にうどんはおかぬらしい。仕方がないからもりを二つ頼む。 見ると、土地の者らしいのが種ものそばをさかなに酒を飲んでいる。二合半とくりを一本頼んでそばをさかなに飲んでみた。 『江戸前の酒だよ』 気どって大ぶりの盃をあけたらいい心地になった。それをしおに下宿に帰った。 随分のんきな学生生活を送っているようだが、日露戦争下の国内外の情勢は日々緊迫の度を増していた。 開戦以来、日本軍は破竹の勢いで戦線を延ばしていた。新聞に戦捷が報道されるたびに国民の士気はいやがうえに高まっていた。 だが、日本軍の優勢が伝わるばかりではない。扱いは小さいが、よく読めば国民の熱した頭に冷水をかぶせる記事もあった。 四月二十五日には、天山沖でロシアのウラジオストク艦隊が軍隊輸送中のわが輸送船『金州丸』を捕捉して撃沈、多くの士卒を捕えている。 五月十五日には日本の軍艦『吉野』が濃霧のため操舵を誤って僚艦『春日』と衝突した。この日は夕方にも『初瀬』が、旅順港沖に敷設してあった機雷にふれて爆沈している。一方、わが第一軍が五月一日に鴨緑江を渡河、九連場を占領すれば、第二軍が遼東半島に上陸開始−の朗報も伝えてあった。 |
国内では日本海軍の広瀬武夫中佐と杉野孫七兵曹長の戦争美談が評判になってもいた。 三月二十七日夜、汽船四隻を旅順港外に沈めて港内の敵艦船の出港を阻止する旅順口閉塞戦に参加した広瀬中佐が、沈む汽船から逃げ遅れた杉野兵曹長を探し求めた。『呼べと答えず`船内くまなく探すうちに二人とも船と運命を共にした。 海軍省は二日後に詳報を発表した。軍神広瀬″の勇名が全国に広まり、のちには東京須田町の交差点に銅像が建立されるに至った。 また軍事探偵横川省三と沖禎介横死のニュースが国民に悲憤の涙を流させ、敵がい心を一層あふった。 シベリアで奥地の情報を探索中の横川、沖が捕えられ、厳しい追及のあげくロシア満州軍総督によって四月二十一日に銃殺され、ハルビン郊外の露と散った。 戦争は情報伝達の機能の発展も促した。これまでは、従軍記者の記事と写真が新聞、雑誌を飾るに過ぎなかったのが、日露戦争ではじめて臨場感あふるる映像として報道された。 東京・吉沢商店が製作した『日露戦争実写映画』で、五月一日から神田錦輝館で上映され観客がひきもきらぬ大好評を得た。 これに気をよくした吉沢商店は次々に実写映画を製作、さらに最新技術を仕入れるために社員河浦謙一を活動写真実情視察のため五月十日に渡米させた。 牧水も早稲田の学生にさそわれて錦輝館に行った。動きが早くて判別しがたい画面もあったが、そこは弁士の説明がぐあいよく情景を描写してぬかりはなかった。 五月三日は三日続いた雨があがって、ぬぐったような青空が広がった。 雨あがりで空気も澄んでいる。そのはるか西の空に待望の富士の秀峰が白銀の冠をかぶって全容を見せていた。 牧水には生まれて初めての拝眉″であった。窓から立って見つ、かがんで見つーを繰り返していたが満足できない。 同宿の者たちに笑われたが、道路に飛び出した。笑われついでに股の間から逆さ富士を眺めてもみた。 その騒ぎで授業開始に三十分はど遅刻した。 五月四日、上京後初めて都農の河野佐太郎に手紙を出した。 入学者の模様を知らせたうえで学資にふれ、四月分はどうにか間に合ったが五月分はあぶない。特に月謝がこれまでの二円五十銭が今年度から二円八十銭になった。毎月五日が締め切りなので、それまでに右の金額を送っていただきたい。 受け取りはハガキでよろしいか−。丁重を極めた文面をしたためた。 つづき 第23週の掲載予定日・・・平成20年5月4日(日) |
早稲田入学 (8p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |