第 21 週 平成20年4月20日(日)〜平成20年4月26日(土)
第22週の掲載予定日・・・平成20年4月27日(日)
早稲田入学 (1p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
四月十一日、昨日に続いてけさも東京の空は高く晴れあがっていた。 葉桜が同動してくれて早稲田大学の門をくぐった。牧水はもちろん葉桜も大学がある場所は聞いていても構内に入るのははじめてだ。 たずねたずねて高等予科の事務所に行った。それだけでも一方ならぬ気苦労だった。 だが、それは序の口だった。入学の手続きを−と申し出たら『出身学校の卒業証明書を出してくれ』と言う。 うかつにも持ってきていない。葉桜が間違いありません−と弁明するが、 『学校もだが、君ものんきだねえ。まあ、卒業に間違いなかろうが、証明書なしで入学を認めるわけにはいかん。すぐに中学校に連絡して送ってもらいなさい』とにべもなかった。 聞いてみれば当たり前の話だ。宮崎県の延岡中学校と言ったって早稲田大学の事務職員が承知しているわけはない。 牧水は一回生だ。早稲田に先輩はいない。 今後の事務手続の説明を聞いて引きさがるより手はない。 翌日は起きぬけに、御手洗校長にあてて証明書を送ってもらう手紙を出したが、折り返し送ってきても日数がかかる。 それまで手をこまぬいて待つ悠長な気分にはとてもなれない。意を決して昼から大学に行った。 事務所では昨Hの職員の上役に強引に会ってもらった。早稲田大学志望の経過から、手紙の往復日数まで相手があきれるくらいくどくど説明した。 牧水ものんきなものだったが、当時の大学も寛容だった。 『それじゃあ若山君。遅くとも一週間以内に卒業証明書を提出することを条件に、仮に入学を許可しましょう。ただし、あくまで仮にだから提出を忘れないように−』 念を押したうえで許可してくれた。保証人には下宿の主人伊川を頼むことにして書類をもらって帰った。 上京当日の意気込みからすると、少々出鼻をくじかれた思いがせぬでもなかった。 それに、上野のほこりがたたったものか、眼が痛い。近くの医者で洗ってもらった。 夜は、細島で一緒に『朝日丸』に乗船した級友の小田四郎が上田豊太郎と連れ立って『状況偵察だ』と顔を見せた。 二人とも大東京の繁華と喧噪に毒気を抜かれた顔つきだった。 十三日、晴れて早稲田の校門をくぐった。ただ、気分は晴れてもまごつくことは初日と変わらない。あちこちぶつかるうちに福岡出身の中林なる同期生と知り合った。 夕方、坂田の立会で制服を注文した。 |
入学の手続きも卒業証明書を除いて整い、気分もやや落ち着いた。そこで細島港を出ていらいの出費を計算してみた。 在学中、坪谷と都農に毎月の収支を報告する約束になっている。その手始めでもあった。 (上京の経費) ▽山陰で車夫に (十銭) ▽細島で馬車賃(九十銭)∇細島でカンヅメみかん(三十銭)∇細島で薬(十銭) ▽細島で船賃宿料(四円九十八銭)∇船中で菓子代(三銭)∇神戸で雑誌(二十五銭) ∇神戸で打電料(四十銭)▽神戸−新橋間汽車賃(四円十三銭) ∇汽車中小費=こずかい=(二十銭) ∇細島の旅館で下女へ (二十銭)∇神戸で郵券料=切手代=(十六銭) しめて十一円七十五銭になった。 下宿にはその後も来客が絶えない。同級生の延岡の門馬良の姉が東京に出ている。弟からたよりがあった、とわざわざ菓子折りを持ってたずねてくれた。 美々津の大森浪江も来た。面識はないのだが、福田の縁類になると言う。 牧水も若い女性の来訪はまんざらでもない。同宿の若者たちをうらやまがらせて少々得意でもあった。 十四日は朝から強い吹き降りになった。前前日の雨で大方散った桜がこれですっかり散り果ててしまった。 傘をつぼめて登校しようと外に出ると、人力車夫が目ざとく見つけて寄ってきた。 『学生さん、この降りじゃたいへんだ。安くしとくから乗っていきなせえ』。 威勢のいい声をかけてくる。その威勢と料金が気になって断わったが、一向にひきさがらない。しつこくすすめるのでやむなく乗ることにした。 学校に近づくと学生を乗せた人力車が何台も連らなって走っている。日ごろはどんなに遠くても歩くのが普通だが、こう降っては仕方がない。 故郷のことを気にしたが、料金は五銭。思ったよりはるかに安かった。 東京に詳しい学生に聞いたら、神田三崎町から荷物と一緒に乗って芝の白金までで五十銭。幅の広い二人乗りの車だと、牛込の赤城まで三十五銭、一人前が十七銭五厘。雨にぬれるのを思えば、随分安いよーと教えられた。 翌日は日曜だった。快晴になったので朝から外出、駿河台の杏雲堂病院に看護婦の富山しげをたずねた。 東京に着くそうそうに上野のホコリで目をやられたーと言ったら笑いころげた。 富山も日向弁で話せるのがうれしいらしい。同僚が耳をそば立てているのも気にせず東京での生活ぶりなど話してくれた。 |
早稲田入学 (2p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
早稲田入学 (3p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
牧水はこの日、駿河台から神田、いったん帰ってたまたまおとずれた東郷村山陰出身の寺原寿助と連れ立ってまた神田へーと一日中歩き回っていた ところが、この日は早稲田大学では大運動会が催されていた。翌日、万朝報を見たらぎょうぎょうしく報道されていた。 早稲田大学は三十四年に専門学校から昇格した。これを祝って約五千人の学生たちがちょうちんを持って、大学から神楽坂、牛込見付、九段坂から小川町をう回して日比谷公園に入り、馬場先門にもどって宮城前広場まで行進、ここで万歳三唱して解散した。 これが、ちょうちん行列のはじめで、以来、何かと言えばちょうちん行列で早稲田の名物行事になった。 昨夜も小規模ながらちょうちん行列があったらしい。牧水は、前日が吹き降りだったので多分中止だろうとたかをくくって登校しなかった。 それはいいが、なんでも大運動会のあとは一週間の休みになると聞いている。どうしたものだろうと思案していたら、岩本の友人の早稲田の学生が下宿にやってきた。 聞いたら彼も大運動会には出なかったと言う。だが休みは知っていた。安心して一日中下宿で寝ころんで昨日、神田の古本屋で見つけてきた紅葉全集を読んですごした。 この思わぬ一週間の休み中に上京前からの計画を果たすことができた。 祖父健海の実家をたずねたことだ。二十二日朝、午前九時二十七分市ヶ谷駅発の汽車に乗り、国分寺駅で乗り換えて所沢駅で降りた。 実家は埼玉県入間郡富岡村神米金(現在は所沢市大字神米金) にある。東京に着いてすぐ十六日に健海の従弟の若山吉左衛門にあててたずねて行きたいと手紙を出していた。 折り返し吉左衛門の息子の久三郎から返事が届いた。それには田植え時期にかかっていて忙しい。来訪は歓迎するが、もっと先に延ばしてはどうか−とあった。 だが、どうしても、という文意でもなかったので思い切ってたずねることにした。 所沢駅から田んぼの中の道を二里はどの所に若山家はあった。 牧水は新調の制服に角帽をかぶって行った。祖父の生家はさほど裕福とも見えぬ平凡な農家だった。 『ごめんください。宮崎県から来ました若山です』 同じ若山の表札を確かめながら案内を乞うた。神米金には若山姓を名乗る家が数戸あった。 暗い土間に降り立った老人が、 『よう、よう。繁というか。さあさあおはいり』 |
大ぎょうに骨ばった手をひろげてむかえてくれたのは祖父健海の従弟吉左衛門だった。 健海は幼名を吉五郎と言った。父の吉左衛門は、吉五郎が二歳のとき病死した。三十五歳。当時としても若死だった。 母も若かった。夫の没後間もなく若山家を出て他に嫁いでいった。吉五郎は、元右衛門、カツの祖父母の手で育てられることになった。 長男夫婦がいなくなり、その嗣子はまだがんぜない。やむをえず吉左衛門の妹、つまり吉五郎の叔母に養子を迎えて跡を継がせた。 養子の源蔵も遠縁にあたる男で、肉親の縁に恵まれない吉五郎に目をかけた。 祖父母と叔父母の手で何不自由なく育ったのだが、実の父母の愛には到底及ばない。 ふとしたおりにそのかげりが吉五郎の表情に見えた。 そのせいか、怜悧だかきかん気も強い。 物のけじめがわかる年頃になったある日、隣村に縁づいている実母と道で会った。 『吉五郎じゃないか。はら銭くれべえ』 母は無理にいくらかの銭を押しっけた。 だが、吉五郎は、母の顔を見上げもせずに握らされた銭を道に投げた。 『あれは鬼だから早く行っちまおう』一緒にいた遊び仲間の手をとって駆け出した。母の呼びかけに振り返りもしなかった。 十五歳のとき吉五郎は江戸に出た。両国の生薬屋に奉公しなから三年間、近所の懦者朝川善庵について漢学を学んだ。 それまで郷里の隣家の漢方医神谷某方の薬方を手伝っていたが、やみがたい好学心から祖父母らには無断で家を飛び出したのだった。 江戸には十八歳までいたが、さらに新しい学問や天地を求める気持ちが若い胸にみちあふれるようになった。 いったん郷里に帰ったものの、一年ほどいただけで再度家を出た。足は西国九州に向かっていた。 九州に渡って筑前福岡の儒者亀井豊太郎の門をたたいてさらに漢学を深め、十九歳から二十一歳まで福岡にいた。 そして天保二年、二十一歳の夏の盛りに長崎に足を伸ばし、二十五歳まで滞在して楢林栄建、竹内玄洞、緒方洪庵、楢林宗建らについて西洋医学を修めた この後、宮崎に足を踏み入れ、坪谷に腰落ちつけて若山医院を創設するが、その前に一度、神米金の生家に帰っている。 牧水を迎えた吉左衛門は若山家の養子源蔵叔父夫婦の長男で幼名元右衛門、後に世襲の吉左衛門と改名した。 吉五郎はその時は身延山参りに行くと言って家を出た。元右衛門は七歳だった。年長の従兄を慕って村はずれまでついてきた。 つづき 第22週の掲載予定日・・・平成20年4月27日(日) |
早稲田入学 (4p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |