第 25 週 平成20年5月18日(日)〜平成20年5月24日(土)
第26週の掲載予定日・・・平成20年5月25日(日)
早稲田時代 (7p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
上京して五十日余り、またたく間に過ぎたようだが、財布の方は日一日確実に軽くなっていた。 月初めに河野佐太郎に着京以来の出費の状況をつぶさに知らせてやったが、返事もないし、坪谷からの送金もない。 月末の支払いに困り果ててやむなく三十日夜、質屋に行った。もちろん初めてのことなのでおっくうでたまらない。同宿の岩本を無理にさそって同行してもらった。 『しちや』とひらがなで書いた重いのれんをくぐるときは、血の気が引くような思いがした。 それにこの日は思いがけぬ手紙をもらったが、その内容で気が重かった。 神戸の親類長田から、これも親類の美々津の福田家に嫁いでいる八重姉からの手紙だった。改名したのか『福田米子』と差し出し人の名が、姓だけでなく名も変わっていた。 なつかしさで心弾ませて読むうちに意外な内容で胸をつかれる思いをした。 今月四日、河野に出した手紙で、五月分の月謝二円八十銭を送ってくれるよう頼んだ。ところが、郷里を出立するさい、河野からもらった金には、五月分の月謝もふくまれていた。 河野はその際『五月分も一緒だぞ』と念を入れておいたのに、繁はまた送ってくれ、と言ってきた。 河野が気分を悪くしている−とあった。 二重どりするように思われたらしい。自分のうかつさからだが、それは心外だ。苦虫をかみつぶしている河野の顔が浮かんできた。 間にはさまってスエ姉が困っていると思うと、恥ずかしくも、情なくもあった。 質屋に行く足どりは、このため二重に重かった。 だが、今月は月半ばから無一文になっている。下宿のおかみの表情が月末になるにつれてけわしくなっている。 気が重くても生まれてはじめての質屋行きをしなければならなかった。 ・・・皮肉なもので、翌三十一日朝には坪谷から十円、電報為替で送ってきた。 さっそく日本橋の局まで受け取りに行った。下宿に帰ったら、いまから登校しても大幅に遅刻する。海野も登校せずに待っていた。 『どうする』 相談するまでもない。二人とも欠席することにして部屋に寝ころんだ。 昼食を食って二人で浅草に行った。ぶらぶら店先をのぞいて歩くうちに牧水は丹野を見舞うことにした。 丹野は蔵前片町の精研堂という病院に入院していた。 |
丹野は採光のよくない病室のベッドにひとり横臥していた。 暗いせいもあろうが、丹野はひどくやつれて見えた。少年の目の面影は全くなかった。 『−繁ちゃん、よくきてくれたね』 牧水が三浦宅をたずねたことを姉から聞いていたようだ。心待ちにしていた口ぶりだった。やはりきてよかった−牧水はそう思った。 『もうこんげなったらいかんわ』 元気者だった丹野が力なく笑って言った。 『ばか言うなよ。今からじゃが。病は気からち言うが、昔の元気坊をとりもどさにゃ。相変わらずの文なしじゃから何もできんが、卵を持ってきた。これで精をつけちくんね』 途中で買ってきた生卵の箱を部屋の隅の小さい水屋の上に置いた。 『すまんなあ』 声がくぐもっている。牧水も涙がこぼれそうになったが、つとめて明るく言った。 『ちょいちょいくるから。気を強うもってくれんといかんよ』。 話は尽きないが、長くいてもどうかと案じて二十分ほどいて帰った。 『学校がだいじじゃから、無理せんこつしてくんねよ』 そう丹野は気づかったが、その日は牧水にすがりつくようだった。 下宿に帰ったら小野葉桜から手紙がきていた。小野は、召集令状がきて今月二十一日に東京をたっていた。 その日は、夜開かれた延中出身生懇談会にも欠席して午後六時半発の列車で帰郷する小野を新橋駅まで送った。 小野の手紙の発信地は熊本市塩屋町三番地、第六師団第三野戦病院になっている。彼は看護兵だ。日露戦争は牧水の身近にもあった。 坪谷からの送金でひと息ついているところに河野から五円の為替を同封した手紙が届いた。米子の手紙で半ばあきらめていたところなので救われる思いだった。 すぐに礼状を書いた。 −米子姉の手紙を見て赤面した。お許し願いたい。ただ、五月分が後で送ってくるものと思っていたのであちこち金を都合したのが、見込み違いで困窮している。今回の送金でやっと急場がしのげます。 ついては今回の送金を五、六月分として、七月分は別に送ってもらえまいか。東京はばかに金のいる所で、坪谷からの十円も下宿料と友人からの借金を払ったら、ほんのはした金しか残らない。筆一本買えぬありさまでまことに泣きたい思いです。 それに脚気が出て手足が流るるようにだるい。学校に行くのさえ途中で小休止せねばならない状態で弱り切っています。 |
早稲田時代 (8p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
北原白秋は、明治三十年に中学伝習館に入学したが、三十三年に文芸雑誌『文庫』を知って新派和歌に興味を持った。 以来、歌作をはじめ三十五年から『白秋』の号で短歌を投稿しはじめた。『文庫』には牧水も中学生当時から投稿しているが、当時『新声』と並ぶ文芸雑誌で、中学生向きの他の投稿雑誌に比べて高級だった。 牧水は『新声』が主舞台になったが、白秋の場合は、『文庫』に多く投稿した。 その影響で白秋も牧水同様に文学に強いあこがれを抱くようになった。そして三十七年、父の反対を押し切って上京、早稲田大学予科英文科に入学した。 当時、白秋は号を『薄愁』と書き、一時期は『射水』とも号した。 この日、知り合った牧水と白秋は同じ九州出身ということもあって急速に懇意になっていった。 六日には学校からの帰りに一緒になった白秋にさそわれて下宿に寄った。 造り酒屋で裕福なため、白秋の部屋には文芸雑誌や単行本がうず高くといってよいほど積み重ねてあった。 牧水はうらやましく思うよりも、その読書の幅の広さと量に驚嘆した。初対面で抱いた一目おく思いをさらに深くもした。 二時間近くいて最近の文芸について語り合った。白秋は『文庫』のほかに『明星』にも歌や長詩を投稿しており、与謝野鉄幹らについても知る所が多かった。 牧水は、これらの話の聞き役に回った。そして近刊の文芸誌数冊を借りて帰った。 三津木、窪田空穂に加えて北原白秋という新しい星を知った。早稲田大学の器の大きさを改めて知る思いだった。 その夜は、北原白秋を知ったことで、少々興奮ぎみだった。夕食後、海野を部屋に呼んで深更まで文芸談に興じた。 『北原君というのはそんなにすばらしい男なのかい。ぼくは若山君、君の歌の方を買うがねえ』 海野は、牧水の熱のあげように水をさすような言葉をはさんだ。だが、彼も興味を抱いて、ぜひ紹介してくれ、とは言った。 −牧水は財布の中の乏しさを先日の手紙で河野に言ってやったばかりだが、大きい買い物をした。登下校に不便だということで先だってから懐中時計が欲しかった。 神田の天賞堂出張店で以前から目をつけていたのを大枚九円五十銭で買った。犬印で(Trusty)。銀色のくさりがついていた。 思い切りがよすぎたかな、と後ろめたい気持ちでいたところ、美々津の福田米子から電報為替で三円送金があった。ほっとした。 つづき 第26週の掲載予定日・・・平成20年5月25日(日) |
早稲田時代 (10p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |