第 26 週 平成20年5月25日(日)〜平成20年5月31日(土)
第27週の掲載予定日・・・平成20年6月1日(日)
早稲田時代 (11p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
北原白秋を知って牧水の文学への情熱はさらに高まった。ちょうどそのおり、萬朝報の歌壇に投稿した歌が第一席に選ばれた。「明星」の与謝野晶子の選だった。 この日は、昨夜半からしくしく痛み出した虫歯のため満足に眠れずに朝を迎えた。不快だった。だが萬朝報第一席入選はさすがにうれしく、歯痛をこらえて登校した。 中林、北原らも新聞を見て承知していた。 『ついにやんなすったね』 牧水の肩をぽんとたたいて祝ってくれた。 中林は、福岡県の出身で早稲田大学入学早早の四月十三日、教室で同じ九州出身ということで自己紹介して以来、よくつきあって、互いの下宿に行き来していた。 名を春人、号を蘇水といった。 後には、牧水、射水(白秋)、蘇水と並べて『早稲田の三水』と称して三人ともいささか得意気であった。 萬朝報のせいで気は晴れたものの、歯の苦痛は買い薬の痛み止めでは一向にききめはない。教室でも身の置き所がないほどだ。 帰りに校医にみてもらおうと寄ったが、あいにく不在。泣くおもいで下宿に帰りつくなり布団にもぐって頭をかかえていた。 −入選の発表があって一週間はどして賞金が新聞社から送ってきた。五十銭入っていた。 夕方、海野を誘って神田に行った。初めての賞金だ。ひとり占めするわけにはいかぬ。 そば屋ののれんをくぐった。 『もりそば二人前。−それにちょうLを一本つけて』 牧水が東京者のように気軽に注文した。 もりそばは一人前ずつだが、酒は一本きり。海野はいける口じゃないし、それに五十銭ではそうはおごれない。 『それじゃまず一杯−』 『これからもたびたびど入選の余恵にあずかりますようー』 くったくのない顔で盃を合わせて笑った。 これを皮切りに入選のたびにそば屋ののれんをくぐることになる。海野が入選そば″と名付けたが、たまに特選になると、そば膳の隅につくちょうしの数が、一本から二本にふえるならわしになった。 六月下旬のある夕刻、恩わぬ婦人が下宿を訪れて牧水を驚かせた。 内田もよという色白の美人で、年格好も牧水と同じ頃とみえた。東京郊外の玉川村から来たもので、海野に折り入って話があると言う。 あいにく不在だったので、牧水の部屋に通した。肝心の海野がいないので深く立ち入った話にはならなかったが、小野葉桜と交際していた佐藤りき子の件できたと言う。 |
話のようすでは、小野葉桜と佐藤りき子なる女性とはかなり親密な関係にあるらしい。内田もよは、りき子の親友になるため、二人の将来を案じてきたものだ。 牧水は、彼の女性関係を全然聞いていなかったが、海野は薄々承知しているらしい。りき子から海野の名を聞いてもよはわざわざたずねたものだ。 そう言えば思いあたる節があった。 小野が、召集令状が来る直前の五月十八日に、この下宿から芝区琴平町一番地の赤壁惣右衛門方にあわただしく引起している。同宿に大森某もいることなので、さして気にもとめなかったが、りき子の存在と関係があってのことだったろうか。 その三日後に召集を受けて帰郷したので、彼女と今後のことについてこもごもと話し合う暇もなかった。 それでもよが心配しているのだろう。 牧水はそう推察したが、もよが、詳細にはふれたがらぬので黙っていた。 ほどなくして彼女は帰った。故郷出身の女性とは、上京後幾人かと会っている。 だが、東京の妙齢の婦人とひざつき合わせて話したのは初めてのことだった。 話したと言っても、小野と佐藤との表面的なかかわりあいにふれたに過ぎない。 牧水が立ち入る余地はない。 それでも引きとめて、もっと人生や世間のことなど語り合ってみたい。そんな気持ちを抱かせる女性であった。 玄関の重い格子戸をしめて姿が暗くなった表に消えるまでその思いを捨てきれなかった。 ほどなく帰ってきた海野に告げたが、内田もよなる女性はもちろん、佐藤りき子についても多くを知っている風ではなかった。 『−深刻な問題になっているんなら、その内田ちゅう女性がまた来るじゃろう』 二年余りの新聞社勤めで、牧水よりは年齢の差以上に世間を知っている。海野はさして気にとめるようすもなかった。 案の定、二日後の夕方、内田もよが再び下宿を訪れた。 折よく海野が在室したので彼の部屋に通った。牧水も興味を持っていたが、同郷の甲斐吉次がきていたので自分の部屋で甲斐と会った。もよとは会えなかった。 甲斐は牛込区砂土原町の延岡郷友会寄宿舎に入るよう牧水らを勧誘にきたものだ。 だが、牧水は延岡中学校の寄宿舎での苦い思い出がある。借りていた文芸雑誌を舎監に取り上げられ、泣く泣く火に投じている。 大学生相手の寄宿舎ではそんなことがあるはずもないが、素人下宿にいた方が気ままでいいからーと断わった。 |
早稲田時代 (12p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
六月末日で第一期の授業がすんだ。あとは期末試験があって待望の夏休みに入る。 休み中は、どこか田舎に転地して脚気の療治をするつもりでいる。二、三、学友から聞いた心あたりに問い合わせの手紙を出した。 七月二日にはその返事があった。葉山の玉蔵院という寺から月の下宿料八円でよければどうぞお越しくださいーと言ってきた。 東京の普通の下宿屋が九円から十円というのが当時の相場だから八円なら適当だ。うかがいたいのでよろしくと早速依頼状を出しておいた。 転地先が決まったことで何やら心みちた思いでいるところへ延岡の猪狩白梅の母くらから小包が届いた。 早速あけると、こまごまと品物が入っている。脚気に特効があると能書きにある新薬の大力ン一筒、同じく家伝薬『たにしの黒焼き』一包み。くず粉一袋、ハンカチにクツ下各一ダース。それに『お見舞い』と記したのし袋に十円が入っていた。 先日、白梅に出した手紙に『延岡以来の脚気に悩まされて…』と書いた。それを案じて送ってくれたものだ。 白梅の両親には延岡時代ずっと世話になってばかりだ。息子の親友というより実子同様のあつかいだ。 畳の上に小包みの品をひろげたまましばし涙ぐんでいた。 すぐに巻き紙を出して筆をとった。人の情のありがたさを異郷にいてひとしお深く感じています−とまずしたためた。 封筒には、五月十日の朝、大学の制服に座布団をのっけたような制帽をかぶって撮影した入学後初の記念写真を一枚入れた。 『たにしの黒焼き』を海野に見せたら、『君はいい友人を持っているんだねえ』 感にたえたような声で言った。真実そう思ってのことらしく神妙な顔つきだった −その海野が、いかなる心境の変化か、翌日になって延岡郷友全寄宿舎に入りたいIと言い出した。 下宿料と舎費との差など経済的な理由もあるようなので、とめはしなかった。下宿の払いが残っている、というから五円二十五銭を立て代えてやった。 午後から牛込区砂土原町の郷友会まで海野の荷物を持ってついて行った。 甲斐、日高らと会ってちょっとあいさつしただけですぐに帰ってきた。 そこへ待ってでもいたように内田もよがたずねてきた。三度目の来訪は佐藤りき子の件より、むしろ牧水に淡い好意を抱いてのことのように思われた。 牧水のおもいも同じであった。 つづき 第27週の掲載予定日・・・平成20年6月1日(日) |
早稲田時代 (14p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |