第 27 週 平成20年6月1日(日)〜平成20年6月7日(土)
第28週の掲載予定日・・・平成20年6月8日(日)
早稲田時代 (15p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
『−ぼくはね。このところずっと脚気をわずらっていましてね。それで夏休み中は葉山にでも行って養生しようと思っているんですよ』 内田もよが、三度目の来訪でひどく身近なひとに思えてそう言った。 『ちっとも知らなくて・・・。葉山はいい所なんでしょう。でも、私の田舎もきっとお気に召すと思いますよ。見るもの、食べるもの、なんにも珍しい物はありませんけど、葉山にあいたら玉川村においでになりませんー』 もよの家は府下荏原郡玉川村瀬田で農業を営んでいる。両親と兄夫婦とその子供らが六人。多人数だが、ちっとも遠慮はいりませんから、と親身にすすめてくれる。 牧水にしても長い夏休み中を玉蔵院とやらのお寺で過ごせようとは思わない 『多分、葉山は早く引き揚げることになると思いますよ。そのおりはぜひ−』 半分はもうその気になって頼んでおいた。 −四日から八日まで第一期の期末試験があった。 牧水は、自信がなかったので、今期の試験はすっ飛ばして、九月になって追試験を受けるつもりだった。 ところが、学校側は予想外に厳格だ。 第一期生は必ず今期の試験を受けること。若し、受験できぬ理由があれば、手数料二円を添えて保証人連署で事務局に申し出ることーと掲示板にはり出してあった。 あてがはずれて大あわてしたが仕方がない。中林らのノートを借りてにわか仕込みの受験勉強で答案用紙を埋めることにした。 最終日は午前二時半に起床、ねじり鉢巻で机に向かうありさまだったが、どうにか全科目を受験、お茶を濁した。 結果がどうだったか−。考えないことにした。中林も北原もどうやら格別の差違はなさそうだ。それでいて、 『試験なんて、受けさえすれば格好がつくもんだ。滅多に落とすことなんかないよ』 と、くったくがない。 学校の帰りに北原に誘われて彼の下宿に中林といっしょに寄った。 牛込区下戸塚四一の『清致館』で、きょうで二度目の訪問になる。 明日から夏休みだと思うと、気が晴れる。とりとめのない雑談のうちに思わず時間が経過して、夕刻になっていた。 北原が気をきかせて近くの店からうなぎをとってくれた。 坪谷と違って東京のかば焼きは蒸し焼きにしてある。牧水がそれを言ったら北原が 『柳河のはせいろで蒸すんだ』。 水郷柳河のうなぎ自慢が始まった。 |
夏休み初日の七月九日。予定ではこの日から葉山に移るつもりだった。 ところが、今朝未明のころから暴風雨になった。到底葉山など行けそうな天候ではない。やむなく延期した。 翌十日も暴風雨は止むどころか一段と烈しくなった。終日、部屋にこもりっ切りで読んだり書いたりで過ごした。 海野も寄宿舎では話し相手に乏しいらしい。朝からやってきたが、帰りもならずに泊った。 牧水にとって降りこめられたこの日に収穫があった。『初恋』と題する小説らしきものにとりかかったことだ。 上京以来、暇と自由にまかせて尾崎紅葉、村上浪六、菊池幽芽、北村透谷、広津柳浪、泉鏡花、川上眉山、田山花袋、木下尚江など当時の流行作家の小説や評論などを手あたりしだいに読んでいる。 延岡では入手できなかった新刊、古本がつい近く神田の本屋街を歩けば容易に求められる。それに夜通し本を開いていようととがめる者はいない。 むさぼるように文芸書を読んでいた。 小説らしきものに手を染めたのは、それらの作品に刺激されたものだった。 『初恋』の題名は、多分に内田もよを意識したものだった。両三度の出会いを『恋』というにはまだまだ熟さないものがあった。 だが、小説の中では、すでに恋は芽ばえている。実態とは遠いところでペンは生き生きと『初恋』の二人を描き出していた。 熱低による暴風雨も三日目になってようやくおさまってきた。 朝には残っていた雨も昼前にはあがり、午後には晴れ間をかい間見るまでに回復した。 海野は『もうだいじょうぶだ。思い切って行けよ』としきりにせき立てる。 ぐずぐずしていてはまた一日延期になると思ったので、人力車を呼んで新橋駅に走らせた。 午後二時四十五分発の汽車で出発、大船駅で乗り換えて逗子で下車。そこから人力車で葉山に向かった。着いた頃には日はなかった。 松林の中に玉蔵院はあった。本堂と庫裡を渡り廊下でつないだだけの小さな寺だった。 住職は初老の気さくな感じの人だった。 玄関になっている四畳半の小部屋に案内してくれた。寺の住人は住職と寺男、それに小僧の三人。いまは牧水と同じように小学校の先生二人が夏休み中だけ、ということで滞在している。 『男世帯で世話が行き届かないと思うが、その分気兼ねはいらないわけでもある』 と、住職が自分で解釈した。 馴れぬ床だが、疲れのせいですぐ寝入った。 |
早稲田時代 (16p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
−東京は金のかかる所というが、都農にしても坪谷にしても、あり余って送金しているわけではない。どのように使っているのか、当方では勘定のつじつまが合わないような気がする。 佐太郎からは商人らしく簡潔に、ス工から肉身だけに『察しはするが、それにしても」とことこまかに出費の注意を言ってきている。 すぐに筆をとって佐太郎あての手紙をしたためた。封書の裏書きは『相模国三浦郡葉山村一色、玉蔵院内より』とした。 『謹啓、酷暑の候、皆々様お変りもなく御暮らしあそばされ候段、奉大賀候。 さて、本日御送付下され候金三円、正にありがたく拝領仕り候。小生、去る四月上京仕り候てより、只今まで土地になれざるため、且つは万事手はじめての事にて、思ひの外の金のみいりて、自分にもほとほと弱り居り申し候。 然し、出来得る限りは倹約致せしつもりにて、何も無益(むだ)なものにつかひしと思わるるは一つも見出すことできがたく候。 御たづねに依り、上京当時の費用のことなど、かいつまみて左に申し述ぶべく候−』。 −牧水の手紙も書き出しから切り口上になっている。佐太郎には、上京以来、五月四日、六月二日、七月一日と三回便りを出しているが、そのつど、送金していただいている金はとてもむだ使いなどせぬむね、くどいように書き送っている それなのに、またも転地先までこの手紙。正直いって泣きたい思いであった。 −坪谷を出るとき持参した金は五十円余り。それは母も知っている。東京までの旅費が十一円二十銭。東京での出費のおもなものは、授業料など五円八十銭、教科書六円九十三銭。冬洋服八円五十銭。机、本箱、ランプ、筆紙など雑費四円余り。下宿屋料が七円十銭。 その他、制帽(二円二十銭)、クツ(同)下駄、傘など四、五円の金はまたたく間になくなった。 その後、五月が総計十五円余、六月は十四円二十銭になった。 送っていただいているのは坪谷の十円と兄様の三円の合わせて十三円。今は金がかかるが土地になれてくれば、元より苦学の決心なので辛抱して十三円内外で暮らしていきたい。 たびたび頼んでいるように毎月、二円八十銭ずつ日を定めて送ってもらえたら、こっちからもうるさく催促はしません。そこのところをどうぞよろしくお願い申します。 当地に来ても薬も飲めない。延岡からたにしの黒焼″を送ってもらって服用する始末です。 つづき 第28週の掲載予定日・・・平成20年6月8日(日) |
病 む 日 (2p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |