第 28 週 平成20年6月8日(日)〜平成20年6月14日(土)
第29週の掲載予定日・・・平成20年6月15日(日)
病 む 日 (3p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
金のことで河野に手紙を出した当座は気が重かったが、転地の連絡していた友人らから次々にたよりが届けられる。 それを読むと気がなごんでくる。 玉蔵院の住人もふえた。茨城から関という青年が静養のためしばらく滞在するという。 快活な男で、うつ病の気があるのでと言うことだが、話しぶりや表情からはとてもそうは見えない。初対面から打ちとけたあいさつだった。 荒井、関が牧水の玄関部屋を交互にたずねてくるようになった。牧水が語る文芸談に興味を抱いているらしかった。 荒井など『勉強になりますよ』と、率直に敬意さえ表している。 葉山の生活も彼らとの交際が始まってようやく身についてきた。自然だけを相手に明け暮れを楽しむには牧水はまだ若過ぎた。 気分は落ちついたが、身体の方はそうはいかなかった。このごろは、腹ぐあいまで悪い。このため、荒井、関らと談笑しているうちは明るくふるまえるのに、彼らが自分の部屋に引き揚げると、身も心も奈落の底にでも引き込まれるような胸苦しさを覚えた。 延岡の猪狩白梅の母くらが折角送ってくれた新薬と家伝薬『たにしの黒焼き』を欠かさず服用しているが、どうにも心もとない。 ふところは気になるが思い切って医院をたずねた。住職の紹介もあったので、玉井という医師がていねいに診察してくれた。 診断は脚気と軽い神経症だった。腹ぐあいが悪いのも、腸の異常というより神経からくるものだ−と説明して、薬を数日分を出してくれた。 転地療養はその意味から適切だったー。と玉井医師がいってくれた。 原因がわかれば安心だ。夕方には、自分から関を誘って海岸を散歩した。 落日がうす紅色に彩る濃いもやのなかに墨絵のような江ノ島が浮かび、紺色に変わった空には富士が秀麗な頂をまだ見せている。 歩くうちに日はすっかり落ち、中天にかかる月が白く輝いて見えてきた。葉山の海岸に寄せる波はおだやかだ。それでも波頭にキラキラ月の光がくだけている。 詩情あふるる情景に牧水の胸がうずく。関を相手に古今集など語り合った。 部屋に帰ったら待っていたように荒井が顔を出した。話題は日露戦争の推移になった。 六月中旬に対島海峡で輸送船常陸丸と和泉丸を撃沈したロシアのウラジオストク艦隊が、きのう(七月二十日)津軽海峡を抜けて太平洋に姿を現し、航行中の民間の汽船、帆船など五隻を襲って撃沈している。 新聞を前に若者たちの話は大いに激した。 |
日露戦争は陸土府て速目激戦が続いている。学生と若い教師たちは毎朝の新聞報道で一喜一憂していた。 亙月以来の戦況は、同月ニ十六日、さきに遼東半島に上陸した(五月五日開始)日本陸軍第二軍が南山を占領した。勝利は収めたものの大激戦でわが軍の将兵の死傷四千三百ハ十七人に達した。 ついで三寸日には人連をも占領した。 大本営はさらに旅順攻撃にあてるため第三軍の編成を翌三十一日に決定。乃木希典大将を司令官に任命した。 一方、ロシア軍もこれに備えるため南下作戦を開始していたが、精説第二軍が得利寺付近で撃退、旅順のロシア守備軍の孤立化を図った。 越えて六月ニ十日には満州軍総司令部を編成、総司令官に大山巌参謀総長、総参謀長に児玉源太郎参謀次長を。また後任の参謀総長には山県有朋を任命する日本陸軍の総力を結集した布石を発表した。 一方、海軍側は、ロシアの、世界に誇るバルチ。ク艦隊の来航に備えるため、寄港地の旅順を早急に攻略、わが手中にするよう海軍軍令部長名で七月十二日、陸軍参謀総長に要請している。 まさに日ロ両国の雌雄を決する日近づく・・の感じを国民がひとしく抱いていた 国内では五月八日夜、わが軍の連戦連勝を祝う市民大祝捷会が東京で開かれ、市民約十万人が参加した。 大いに銃後の気勢をあげたが、大会のあとちょうちん行列に移ったところで熱狂した参加者が行列を乱して混乱。ついに馬場先門前では警官隊の阻止を越えて暴走、死者二十人を出す不祥事になった。 また、川上音二郎の一座が、松居松葉作の 『戦況報告演劇』を本郷座で上演、演劇の舞台に果て戦雲をただよわせていた。 当時の国民の戦争気分を物語るエピソードはいくつもあるが、その一つに戦捷記念絵ハガキの発売かある。 数年前から、文学趣味の絵ハガ牛が出て、学生の間で人気があったが、日露戦争が始まって戦闘場面を描いた三枚一組の記念絵ハガキが郵便局で売り出された。 これが爆発的な売れようで、熱心な連中は売り出し当日、まだ夜が明けきれないうちから局の前に行列をつくるほどだった。 東京の江戸橋の郵便局では、押すな押すなの群衆にもまれて少年二人が圧死するといううそのような事故まで起きている。 牧水の四畳半の部屋も若者三人の熱気あふるる戦争談で夜の深まるのも気づかぬ状態。 『私たちは朝が早いので−』 遠慮しいしい寺男が言いにきた。 |
病 む 日 (4p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
新橋から人力車で小石川区大門町の鈴本方にいる延岡中学同窓の門馬良の姉門馬ちかをたずねた。だが、あいにく外出中だった。 荷物だけ預かってもらってそのまま牛込区原町の白石方に大森浪江をたずねた。白石方にしばらく宿を頼むことにした。 夜、門馬ちかをたずねたら、白石方は気づまりでないか。よかったら鈴木に話して一部屋あけてもらうからこちらにきては、と言ってくれた。 白石方に三日滞在して鈴本方に移った。葉山を立つ日に内田もよに出しておいた手紙の返事がきた。彼女は『ぜひおいでください』と、家族して歓待のようすだった。 浪江もちかももよも、飾ることのない牧水の人柄に好意を持ってくれている。ありがたいことだ。牧水もこだわりなく彼女らの親切にあまえていた。 九日、ミルクホールに寄って官報を見た。高等学校入試合格者の氏名が掲載されているからだ。 見ていくうち、延中同窓の古川正雄、百渓禄郎大、鈴木財蔵の三人の名があった。 親友鈴木に早速、ハガキで祝いを言ってやった。 万歳!! 戦争以外に僕が誠心こめてこの叫声を発するを得た今暁(いま)の愉快!! ああ君実にどうだろう!! 君、宜しく、舞へ、歌へ、しかしてこの声を叫べ!! (電報用紙を貰って、そしてこれ此通り破った。察してくれ!! 九日晴 わか山 局から電報を打つつもりだったが、それではこの喜びを言い尽せぬと、ハガキにしたためたものだ。 鈴木は鹿児島遊士館(七高)に合格していた。彼は、牧水より三歳年長で中学時代から文学を愛し、『曙』『野虹』を創刊した仲間である。 牧水にとって人間的にも、文学の上からも生涯最も親しんだ得難い友人であった。 彼の高等学校入学は、自分の病気も忘れるほどの朗報であった。その翌日には、牛込区砂上原町から今度麹町五番町十ハに移った延岡郷友会寄宿舎を訪れた。 鈴木らの話を宮崎中学出身の海野に伝えたい気もあってのことだった。 商船学校を受験すると言う同窓の村井武らはいたが、肝心の海野はいなかった。 軽井沢からの二度目の通信では十日ごろには帰京のつもりIとあったが、帰ったようすはない。旅先て病気か、あるいは財布がからか・・。心配になって富士屋に手紙を出した。 つづき 第29週の掲載予定日・・・平成20年6月15日(日) |
病 む 日 (6p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |