第 29 週 平成20年6月15日(日)〜平成20年6月21日(土)
第30週の掲載予定日・・・平成20年6月22日(日)
病 む 日 (7p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
麹町まで往復したのがたたったものか、翌日はどうにもならぬくらい足がだるい。終日鈴木方で寝ころんでいた。 朝からオルガンが聞こえてくる。二階の窓から見ると、隣家の小学生らしい女の子が弾いているのが開け放ったガラス戸の奥にのぞかれる。たどたどしい調べが、かえって隣家のあたたかい家庭をほほえましくしのばせる。 この日も来信が多かった。海野からも届いた。これは昨日の返事ではなく多分鈴木方に落ちついているはずと察して出したものだ。 『二十八日ごろまで滞在する』とある。『人の子』も一緒らしい。 猪狩白梅からも病状を問い合わせてきていた。玉蔵院で別れた関謙三からの手紙が思いがけずあったのはうれしかった。 神戸の長田の叔母からは浴衣を送ってきていた。 海野が殊勝にも『早くも初秋の気配の軽井沢のにはひを−』と、同封していた女郎花の押花を日記にはった。 人のぬくもりをしみじみ感じた。 都農の河野からこの日届いた三円の為替もいつもよりあたたかいように思えた。さっそく礼状をしたためた。 〜酷暑の候、御無事の由、大慶至極に存じ奉り候。小生の病勢、どうも思うやうにまゐらず、腹が立ってたまらず候。昨日、杏雲堂の佐々木博士に診察を乞ひしに、脚気は重くはなけれど、急には全快せざるべく、脳は養生次第では早かるべしとの事に候ひき。 本日御送付下され候金三円、正にありがたく拝領仕り候。今日の場合、べつだん嬉しく存じ申し候。 杏雲堂病院は坪谷出身の富山しげが看護婦をしている。彼女の母山口マスから、葉山滞在中に手紙をもらった。 『−東京のようすはちっともわからないが、繁さんが近くにいると聞いて安心している。どうぞしげを頼みます』 とあった。そのこともあって杏雲堂をたずね、しげのすすめで診察してもらったものだ。脳は神経症のことに過ぎない。 佐々木博士は心配ない、と診断してくれたが、調子はよくない。足の指先までしびれるようなので諏訪町の坂口観成堂病院に行った。 診断は似たり寄ったりで、薬をくれた。診察料、薬代合わせて二十四銭。痛い出費になった。 しばらく通院した方がいいーと言うので翌日も行った。二時間持たされて薬をまたもらって帰った。あくる日もまた−。 薬の効能も疑わしいし、出費が恐ろしいのでまた玉川に転地することにした。 |
萬朝報歌壇に一等人選したことが、牧水のこのところ眠りがちだった歌作の意欲をゆり起こした。 小さなノートをふところにいつもの散策を続けるうちに幾つかの歌を得た。 水の富士草の富士さて畑の富士あづまは秋のうつくしき国 富士遠く武蔵のあさの秋晴れぬ蕎麦蒔く日なりいで孫も来よ 玉川の岸辺をたどるうちにいつか夕刻になる。別れ行く雲は干し草の色に染まっている。 あかずに見ほれてきた富士もはや山全体を濃い紫の一色に変えている。 また、早朝の玉川べりは川霧が深く、草は露を多くふくんでいる。 待てしばし野の鐘撞くな秋しろう霧にまかれて夢さめぬ里 中学生時代、残りすくなくなった夏休みを惜しんで、坪谷川から裏山のあたりを歩いたころが思い出される。 草を敷いて座れば、肌着を送ってくれた母の顔が浮かんでくる。小石を拾って河原にほうれば晴天続きで川水やせて大小の岩があらわれた白い河床にからからと音を立てる。 巌うたばこぼれいづべし神の国日向の秋の山の詩(うた)きかむ 晴天続きと言えば八月五日から二十四日までからから天気かつづいている。 療養の身にはありがたいが、農家では干害が心配されてきていた。この日は、近郷一帯で雨乞いをするということだ。 近くの神社から太鼓の音が聞こえてくる。太鼓の音に鉦を打つ音も混じって遠く近く伝わる。村内をみんなして回っているらしい。その音があくまで高い秋空に響いて、物悲しい思いにさえかられてくる。 だが、農民らの神への願いが聞きとどけられたのは三十日になってからだった。 そぼ降る雨で始まったのが、あとで風まで加わった。九月一日が二百十日になる。もよの両親など時化(しけ)を案じている。 だが、その雨も三十一日にはあがった。玉川の水かさを増すには至らなかったが、水稲や野菜類はみるみる生き返った。 二百十日も無事に過ぎた。 雨で涼しくなった畑に出てトウキビを取り入れる農夫たちの顔色も明るい。泰西画のような風景に牧水は見ほれていた。 九月一日には牧水らが延岡で発行した同人誌『曙』が久しぶり送ってきた。延中の卒業式の前日あたり同人が集まって城山で撮った写真が巻頭を飾っている。 萬朝報の歌壇にまた当選。これより先、読売新聞に投稿した小品『夏草日記』が掲載された−と連絡もあった。よきこと多し。 つづき 第30週の掲載予定日・・・平成20年6月22日(日) |
病 む 日 (10p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |