第 30 週 平成20年6月22日(日)〜平成20年6月28日(土)
第31週の掲載予定日・・・平成20年6月29日(日)
病 む 日 (11p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
四日に届いた父立蔵の手紙を読んで思わず巨頭をあつくした。 牧水が、葉山、玉川と転地までして療養しているのを知った坪谷の人たちが、坪谷神社で病気平癒の祈願をしてくれたという。目高亀雄や隣家の『寅おじゃん』ら数人が一晩、神社におこもりしてくれた。 東郷では病人が出ると、集落内の世話役が企てて鎮守様で祈願するならわしがある。酒や茶菓類をそれぞれ持ち寄って深夜までつとめるが、立蔵とマキのことだ。若山家で酒さかなも十分に用意したことだろう。 ローソクかランプか。淡い灯りのなかで酒をくみかわす故郷の人たちの一人々々の表情が容易に想像される。 部屋にじっとしておれずに戸外に出た。はるか、坪谷の方角と思える南の空に向かって心の中で合掌した。 話は一足跳びに先を急ぐが−。 大正十三年春、牧水は亡父立蔵の十三回忌をいとなむため長男旅人を伴って坪谷に帰った。沼津を立って福岡、長崎、熊本、宮崎と各地の創作社友や土地の歌人たちの歓迎を受けながらの旅だった。 そして、牧水がはじめて故郷に錦を飾ることになった帰省でもあった。 そのとき、旧友矢野伊作、富山豊吉の両人がケヤキの板をたすさえて来て言った。 『繁やん、坪谷神社に奉納するんじゃが、歌を書いてもらうわけにゃいかんの』 『いやあ、神様にあげる歌なんぞ、私には』 断わったが、是非にときかない。やむなく筆をとって書いた。 −久し振りに故郷に帰り来れば旧友矢野伊作、富山豊吉の両君、この板を持参して氏神に奉る歌を書けという。すなわち氏子の一人、若山牧水−。 うぶすなのわが氏神よとこLへに村のしづめとおわすこの神 牧水の脚気の病気平癒を祈願した氏神坪谷神社に奉った歌だ。彼の胸中に玉川村での感激がよみがえったことと信ずる。 またこの時、『寅おじゃん』が、炭焼きの仕事で奥山にいたのが、わざわざ下山して一升ぴんをさけて訪れた。 『しげ坊もこんげえろうなったかり、もうそうは呼べん。なんち言えばいいかい』 『いんにゃ、死ぬるまで私をしげ坊ち呼んでくんない』 盃をおいて短冊に即興の一首をしたためた。 おとなりの寅おじゃんに物申す永く永く生きてお酒のみませうよ 裏面に、『矢野寅吉おじゃんに贈る歌、おとなりの若山のしげ坊』と、書いた。 これはのちのちの話になる。 |
十六日に帰京の予定が、思いがけぬ風雨のため出発を延ばすことになった。十七日も風雨は止まず、十八日になった。 内田の家の人々はもとより近所の子供たちまで別れを惜しんだ。宿のもよの兄の子の虎ちゃんなどワアワア泣き出す始末。つられて牧水も目を赤くする別れになった。 東京に帰って海野が延岡郷友会寄宿舎を出て下宿している、麹町の三芳野館に寄った。 ここに同宿するつもりだったが、都合が悪くなっていた。牛込の学校近くを探すことにしたところ、たまたま北原白秋がいる下戸塚の下宿清致館に一室あいていると言う。 それを幸いにしりを落ちつけることにした。 白秋も『−君がきてくれれば大いに勉強のはげみになるよ。いや、学校の方は別にしてだよ』と、冗談を言いつつも喜んでくれた。 小石川大門町の鈴木方にあずけたままの荷物を海野が人力車で届けてくれたのが二十一日。帰京の翌日以来この日までずっと雨にたたられて外出できなかった。 翌日はようやく晴れた。前夜泊まった海野と一緒に麹町の彼の下宿に行った。萬朝報を読むうちにきょう本郷座の初日の幕が開くとある。 演し物がダンテの『フランチェス』と、泉鏡花の『高野聖』とおもしろそうだ。 二人ともふところに金はないのに『見に行こう』と、相談だけは早い。どうも東郷生まれには後先の思案よりまず走り出して・・の一直線型の傾向がある。 牧水が、本郷に住んでいる都農町出身の坂田弁二が故郷から帰ってきているはずだ。帰ったばかりだからふところもあったかいはず。 『心配ない。坂田兄に頼めば軍資金はどうにかなるよ』 海野をせき立てて本郷にかけつけた。ところがあいにく不在。帰ってはいたが外出中で行き先はどうも・・と、下宿のおばさんが頼りない返事をした。 あてが外れたが、さりとてこのまま引きさがるのもばかげている。 二人の所持金は合わせて五十七銭。木戸銭だけはどうにか間に合う。夕食をがまんすれば足りるさ。とにかく初志貫徹、とばかり本郷座に向かった。 芝居は期待どおりに二人を満足させてくれた。感想は案内の裏にこまごま書きとめておいた。 まあ、どうにか芸術的欲求は充足できたものの腹の虫はすこぶる不満。観劇中も周囲に気がねするくらい泣き声を立てていた。 素うどん一杯ずつで不満を押さえて清致館に帰った。 午前一時、白秋はまだ起きていた。 つづき 第31週の掲載予定日・・・平成20年6月29日(日) |
病 む 日 (14p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |