第 44 週 平成20年9月28日(日)〜平成20年10月4日(土)
第45週の掲載予定日・・・平成20年10月5日(日)
小 枝 子 (3p目/19pの内) 挿画 児玉悦夫 |
専念寺境内の桜の老樹のつぼみのふくらみようが、近所の人たちの話題になる三月中旬ごろ、同寺の離室に思いがけぬ来客があった。 四十歳前後の背は高くないががっちりしたからだつきの男だった。 『若山牧水先生はご在宅でしょうか』 いま田舎から上ってきたばかりと言った風来の男が緊張した声で案内を乞うた。 直井が、目を丸くして牧水の脇腹をつついて言った。笑いをこらえている。 『繁やん、センセイじゃげなが−』 牧水も少々驚いた。『先生』と呼ばれたのはきょうが生まれて初めてのことだ。 座敷にあげると、きちんと正座して用件を切り出した。その話だと、その男は千葉県から上京したばかりだが、これから出版業で世の中に役立つ仕事をしたい。 おいおい月刊文芸雑誌を出すつもりだが、その手始めに『若山先生』の歌の本を出させてもらいたいーと言った。 物言いといい、両ひざに握りしめて置いた骨くれ立ったこぶしといいとても歌などに興味を持っているような人とは思えない。 しかし、話の内容も堅実だし、ウソやいつわりをいう人間とはとても思えない。 かえって、こんな素人っぽい人の方が事業はうまくいくものかもしれない。出版といっても所詮は商売だ。 牧水はとっさに判断して彼の申し出に快諾した。横で聞いていた直井も結構な話じゃないか。運とは案外こうしたもんだよと賛成してくれた。 用件をすますと男はそそくさと帰って行った。千葉県の在の方言でもあるのか、『私などグレた事しかできないグレた男でー』と、『グレ』を連発する。 『グレさん、金は持っていなさるんじゃろね』。 直井は早速、この男に『グレさん』のあだ名をつけた。しかし、いかにも実直そうな彼に牧水ともども好感を抱いていた。 思いがけぬ幸運に小躍りして牧水は歌稿のまとめにかかった。といっても、作歌の全部を『新声』に発表しているので、それを書き写せば出来上がる。 二、三日後にはまとまった。原稿を持って下谷区坂本町二丁目の『文潮社』をたずねた。平家を間借りをして看板をかけただけの出版社に彼はいた。 素人だから本の体裁がわからない。先生がいいように頼んでくださいーと四十円をさし出した。 その足で牛込の日清印刷所に回って打ち合わせた。四号活字、一ページ三首組、全部で百六十ページということになった。 |
牧水の処女歌集『海の声』の出版はこうしたいきさつから手がけられた。 『海の声』と命名した理由は、のちに『序』に書いている。 『われは海の声を愛す。潮青かるが見ゆるもよし見えざるもまたあしからじ、遠くちかく、断えみたえずみ、その無限の声の不安おほきわが胸にかよふとき、われはげに言ひがたき悲哀と慰籍とを覚えずんばあらず』。 牧水が海を初めて間近に見だのは六、七歳のころだった。母マキに連れられて東郷村の舟戸から高瀬舟で耳川を下った。舟が美々津港に着こうとするとき、眼前の砂丘を越えて雪のように真白い飛沫をあげて青々とうねり高まる波を見て牧水は思わず母の袖をつかんでしまった。 『おっ母さん、あれはI』 その巨大さと腹にこたえる音に驚きおそれて聞いた。 『あれは繁。海の波じゃが』 母は笑って彼の肩を抱き寄せた。そして舟からあがると、神代の昔、神武天皇が大和征伐のため軍船を連ねてその間をぬけて出陣して行ったと伝える岩島二つが浮かぶ海をさして教えてくれた。 『この海の向こうに、土佐も大阪も、東京も、遠い遠い外国もあるとよ』 この日いらい、牧水は海への素朴なあこがれとおそれの心を抱いてきている。 その海が人間に語りかける、時には叫び、ある日はささやきを三十一文字で表現したい。その思いをこめた『海の声』の命名である。 題字は能筆の土岐湖友に頼んだ。表紙絵は日本画家の平福百穂に依頼することにした。 平福は明治十年十二月二十八日、秋田県角館町の生まれ。三十二年に東京美術学校日本画専科を卒業しているが、それ以前の二十九年、二十礁て日本美術協会展覧会に『義貞義兵を挙ぐ』の歴史画を出品、宮内省御用品になった俊秀てある。 また絵画だけでなく歌人としての名も高い。三十五年ごろから伊藤左千夫、長塚節らと交遊があった。 牧水は何かの機会に平福の絵を見てすっかり魅せられ、頼む気になったものだ。 千駄ケ谷の下宿に彼をたずねていきなりに頼んだのだが、平福も牧水の歌にかねてから注目していた。快く承諾してくれた。 ただ、なかなか出来上がらずに幾度か恐る恐る催促に行った。ある日は二階の笑い声を聞きながら遠慮して帰ったこともある。 一介の早稲田の学生ではちょっと歯が立たぬ存在であった。 五月の初めにはその絵ももらい、完成に近づいたところで暗礁に乗り上げた。 |
小 枝 子 (4p目/19pの内) 挿画 児玉悦夫 |
小 枝 子 (5p目/19pの内) 挿画 児玉悦夫 |
暗礁になったのは出版経費の問題だ。牧水は、文潮社の主人から渡された四十円を日清印刷に持って行ってはいるか、これはあくまで手付け金だ。 製本の段階になって印刷所から資金の催促があった。その後に追加入金がないのであやうんでいる様子だ。当然のことなので牧水が文潮社をたずねた。 ところが、『グレさん』こと同社の主人は金策に行って来ると言い置いて千葉に帰ったきり姿を見せない。 彼の郷里を詳しく聞いていないのでこっちからは連絡のしようがない。その上、当初の目算の倍額以上も出版経費がかかっている。泣き面にハチのありさまだった。 そのうちにグレさんから手紙がきた。田舎に帰ったが金策の目途が立たない。それに出版業は容易でなさそうだからあきらめる。悪しからず、と勝手なことを言ってきた。 手紙に僅かながらも為替が同封してあったのがせめてものことだった。 逃げた文潮社を追っかけたってらちはあかない。専念寺の離室を『生命社』と名付け、ここから自費出版することにした。 友人たちの間を駆けずり回って幾ばくかずつの金を集めた。柴舟にも泣きついて二十円を借りた。日清印刷所の役員の大鳥居弁三に事情を説明して割安にしてもらうよう頼み込みもした。 そうした奔走の結果、どうにか出版の見通しがついた。 一方、牧水は七月に大学の卒業を迎える。本の校正にかかったころが卒業試験にぶつかった。級友たちのノートを借りて一夜漬けの勉強で試験を受ける。その帰りには印刷所に寄って校正刷りをもらって来る。 校正刷りを見ながら歩いていて八百屋の荷車にぶつかったこともあった。 そんな苦労もあったが、無事卒業式を迎えることが出来た。総長伯爵大隈重信、学長法学博士島田早苗の押印のある卒業証書を手にしてさすがに足が軽かった。 式には河野佐太郎、スエ夫婦に無心して送ってもらった新調の久留米がすりに袴を着けて出席した。 『海の声』も卒業式から聞もなく陽の目を見た。難産の処女歌集であった。それだけにいとおしかった。 四六判、本文百六十ページ。『われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみにうち追われつつ』を巻頭に四百七十五首を収録した。 七百部刷って定価五十銭で本屋に置かしてもらうことにした。 平賀にも手紙で販布方を依頼した。一割引きでいいからぜひ、と言ってやった。 |
大学を卒業した。処女歌集『海の声』も苦心の末にようやく出版した。一息つけるわけだが、実は最大の難関がひかえている。 就職だ。卒業前から大学や友人の口ききで二、三の就職口は紹介されたが、純文学で身を立てる決心をしている牧水の意に添う話ではなかった。 就職口に迷っているところに信州軽井沢にいる友人から手紙が届いた。彼は早稲田の商科の学生だ。 彼は英語が得意で、軽井沢に部屋を借りて避暑客の外人たちに日本語会話を教えている。牧水に向いた仕事があるので、遊びがてらにやって来ないかと言う誘いであった。 思うような勤め先も見つからず気の重いころだった。気晴らしに喜んで誘いに応ずることにした。土岐湖友もまだ就職が決まっていない。ぶらぶらしていたので誘って行った。 軽井沢で三人の自炊生活が始まった。仕事は、ある外人が日本語で著書を出したいので、英語の原文を和文に翻訳して欲しいというものだった。 翻訳だけなら商科の学生がお手のものだったが、文学的に洗練された文章にするのには荷が重い。牧水と湖友に頼みたいと言う。 軽井沢に着いたのは七月二十四、五日ごろ。高原にはすすき、吾木香、藤袴、女郎花などの秋草の花が咲き乱れていた。 あくまで澄んだ空気。白い煙を吐き続ける浅間山。派手な服装をした外人や女学生の姿がやたらと目についた。 牧水も湖友も別世界のような景観とそこで一夏を過ごす人々を見て心機一転、救われるような思いがした。 男三人の自炊生活も、少々値段がはるのを除けば食料、日用雑貨、なんでも人手できる。 楽しくさえあった。 だが、仕事の方は存外につまらなかった。二人とも初めから気乗りしなかった。結局、こんな景色のいいところに来たんだ。仕事はやめて幾日か遊んで帰ろうということになった。 下町の裕福な寺院の二男坊である湖友はせいて就職する必要もなかった。牧水も切迫した思いを抱いてはいなかった。 名古屋の歌友鷲野芳雄や延岡の平賀に軽井沢滞在を知らせる手紙を出した。 『−海を抜く三千幾百尺、そこに広漠ほとんど涯を知らぬ平原が横だわっている。その高原には一面に草が青々と生い茂り、そのほとんどみな花を特っている。雲の姿、星のにおい。いずれも平地に見られぬ特色を備えている。西洋人が六、七百人ばかり集まっていて一種の殖民地を見る思いです』 初めての軽井沢の夏に酔いしれていた。 つづき 第45週の掲載予定日・・・平成20年10月5日(日) |
小 枝 子 (6p目/19pの内) 挿画 児玉悦夫 |