第 45 週 平成20年10月5日(日)〜平成20年10月1日(土)
第46週の掲載予定日・・・平成20年10月12日(日)
小 枝 子 (7p目/19pの内) ![]() 挿画 児玉悦夫 |
土岐潮友には将来を約束した恋人がいた。両方の家族も認めている仲だった。毎日のように恋人あての手紙をしたためていた。 高原の秋草の花を摘んで小包にして送る情の細やかなところも見せた。 ある夜、湖友が彼の恋人のことを打ち明けたあとで牧水に言った。 『若山君、妹の和貴が君を尊敬しているようだよ。もしよかったら付き合ってみてくれないか。気に入ってもらってでもくれれば、僕はもちろん、母や兄姉たちもきっと賛成してくれると思うんだがー』 真顔になってそう言う。牧水も真面目に好意を謝したが、彼にはすでに小枝子という愛する女性が存在した。 『僕のような田舎者では、和貴さんとは不似合だよ。それにどう暮らしを立てていくやら、将来の目当てもない身分だし:・』 ていよくその話を断わった。 そしてー人きりになると、東京の園田小枝子に手紙を書いていた。 彼はもう小枝子を自分の伴侶と定めていて歌にもそう詠んでいた。 大空に星のふる夜を火の山の裾に旅寝し妻をしぞ思ふ 火の山にしばし煙の絶えにけりいのち死ぬべくひとのこひしき そのうちに小枝子からの葉書が軽井沢に届いた。 『あなたと遠く離れて住んでいるのがさびしい。一日も早く東京に帰ってきてほしい』 走り書きの文面に牧水を恋うる切々たる思いがあった。 牧水も湖友も翻訳の仕事をしないのだから入金のあてはない。僅かばかりの所持金も底をつきかけていた。そこへ小枝子から便りがあったためすぐに軽井沢を引き揚げることにした。 商科の学生と、あと数日残る、という湖友に別れて牧水一人帰京することにした。 碓氷峠の中腹まで二人が送ってくれた。そこから一人峠道を登って行った。峠の茶屋あたりは一面の濃い霧につつまれていた。 わかれては十日ありえずあわただしまた碓氷越え君見むと行く 瞰(み)下せば霧に沈めるふもと野の国のいづくぞほととぎす啼く 碓氷をくだり、坂本の宿に泊り、妙義山を見て東京に帰り着いたが、数日間、離室にいただけで今度は名古屋に出向いた。八月九日のことだ。 この年の三月に名古屋在住の歌人らが短歌雑誌『八乙女』を創刊している。牧水もこの雑誌に投稿していた。 『八乙女』同人らの誘いで彼らの歌会に顔を出したのだった。 |
名古屋で四、五日遊んで西下、奈良に遊んだ。名古屋を出発したのが十四日、それから奈良、大阪、神戸と泊まりを重ねて、神戸港から乗船、細島港に着いたのは八月下旬であった。 この帰省の途次、各地でかなりの量の酒を飲んだ。早稲田大学の卒業証書を携えてはいるが、両親らが期待しているであろう就職の目途はついていない。 それどころか、帰郷してもすぐ九月中に上京のつもりだ。『海の声』出版費用に柴舟から二十円を借りている。借りは友人が融通してくれるはずの金で払うことにしていた。 ところが、その頼みの友人が父親といさかいして送金してもらえなくなってしまった。その支払いの工面もしなければならない。 さらには、生活設計の手段として金になる文芸雑誌発行の計画を立てている。そのための基金も捻出しなければならない。 卒業証書入りの筒を待って晴れやかに帰省するのとは甚だしく事情が異なっていた。 一方、歌に゛妻゛とよんでいる小枝子との仲も、何やら障害があるように感じられる。 煩悶が幾重にも幾重にも渦巻いていて胸が痛む。その痛みをまぎらすために連夜の酒になった。 坪谷のわが家に帰りついたときは半病人の態であった。 両親と姉シヅが大喜びで迎えてくれた。母マキは気分がすぐれぬようだったが、それでも赤飯をたいて祝ってくれた。立蔵は出入りのかつぎ魚屋に頼んで富高から鯛を取り寄せてくれた。 家族水入らずてささやかな祝膳を囲んだが、立蔵ひとりが酔って冗舌になっただけだった。牧水は胃が重い。父親に調子を合わせようと気を引き立たせてみたが、無理だった。 母は赤飯と鯛の刺身に箸をつけただけで敷き放しにしてある布団に身を横たえた。 『折角の祝いじゃから、真似だけでもしようかい』 好きな酒も唇をしめしただけで盃をふせた。 姉シヅは敏感なたちである。弟の盃がはずまないのは何か心にかかる悩みごとでもあるのだろう。そう察している顔であった。 翌々日には今西の義兄夫婦が祝いにきてくれた。トモは快活だった。姉のおかけで家に灯がともった。牧水の心もなごんだ。 『河野の兄さんたちも家移りがおわったら来るそうじゃが』。 都農から伝言を持ってきていた。河野家では母屋を新築していた。完成しているので四、五日うちには新居に移る。それがすんだら坪谷をたずねるつもりだと言う。 そのほかに村人の好奇心の目も待っていた。 |
小 枝 子 (8p目/19pの内) ![]() 挿画 児玉悦夫 |
小 枝 子 (9p目/19pの内) ![]() 挿画 児玉悦夫 |
牧水の帰郷に坪谷の村人たちの興味深い目が集まっていた。 若山家は健海、立蔵と二代読いた医院てある。山陰には純曽が経営する分院もある。健海が年々求めていった山林、田畑もあるし、何よりも村内切っての知識人であった。 坪谷はもちろん近在でも一目おかれる家柄であった。村の費用の出し前もそれに応じて他の家々より多かった。 立蔵自身そうした世間体を重んずる人だった。マキも旧内藤藩の士族の出身という誇りを終生忘れぬ人であった。 だから、当時も初代院長当時と変わらぬ村交際が読いていた。 だが、他に刺激のない山峡の村の住人たちの耳目はさとかった。 若山家の台所がかなり窮迫していることはとうから知れ渡っていた。 多少、文字が読め口がきける者たちの間では、牧水の東京遊学の話が伝わったときから非難めいたうわさが流れていた。 『医者の跡も継がんで、何やら文学とかいうもんの勉強に東京の大学に行くげな。立蔵先生も物好きなお人じゃが、繁やんもまあえしれんことよのう』。 『立蔵先生のうえに繁やんの分までおマキ小母さんが苦労を背負うこつにならにゃいいがー』。 立蔵、マキの耳にも直接、また遠回しに村人たちのうわさは聞こえていた。 マキはそのたびに弁解した。 『カエルの子はカエルちいうけど、人には人の向き不向きがある。繁もそれはよう考えちょるごとあるし、中学校の先生たちもその方に才能があるからとすすめてくれやるもん 『それに東京の大学を出れば、なんぼつまらん者でも六十円の月給取りは違わんちいう話じゃかりねえ』。 月給の話は冗談めかして言ったが、彼女の本音でもあった。繁が大学を出て立派な月給取りになる。それ以外に、いまの若山家の苦境を救う手はない。 牧水の上京から四年間、その一事をたのみに耐えてきたマキであった。 そのマキの姿を村人たちは同じ四年間興味を待って見守ってきた。 しかし、大学は卒業したもののしかとした就職は決まっていない。息子の口からは希望めいた話を聞かされるが、老いた両親にはつかみどころがなかった。 待ち受ける村人たちに『繁も大学を出てj』までは報告できるが、その後の期待にこたえる言葉がなかった。 それは都農の河野夫婦にも言えた。 |
河野佐太郎は牧水の早稲田大学在学中欠かさず学費を送金している。姉スエは、卒業式に着て出る着物がないというので久留米絣の単衣一かさねと現金を送ってもいる。 夫婦とはいっても毎月のことでは遠慮かおる。この分は佐太郎には内緒だった。 佐太郎は元々牧水の早稲田進学には不賛成であった。それを義弟になる延岡中学校教諭黒木藤太に 『繁君は将来有為の若者です。必ずひとかどの人物になる。投資のひとつと思ってぜひ援助してほしい』 そうまでくどかれて送金を引き受けたものだ。゛投資゛は言葉の綾にしても、卒業の暁には「ひとかどの人物」になるべき一歩を踏み出してくれるもの。そう固く信じて疑わなかった。□には出さないが、スエの願いは夫よりも無論切実であった。 卒業はしたものの牧水が帰郷したのはニカ月後。その間に就職の知らせはない。 今西吉郎に新築の家に移ったら坪谷をたずねる。そう伝言はしたものの腰をあげる気にはなれなかった。 子供のない河野夫妻はずっと年齢の離れた牧水を弟というよりもわが子と思って目をかけてきた。 それだけに卒業式後ニカ月振り。それも卒業証書一枚きりの帰郷では納得がいかない。 裏切られたような腹立たしい思いであった。牧水としても都農に対する事情悦明が一番気になっていた。伝言をあてにしていたが、河野夫妻は一向に坪谷川ぞいの道を上ってこない。 居ても立ってもいられぬ思いで都農に督促めいた手紙を出しだのが九月十一日であった。 母マキの病状がよくなくて会いたがっている。それに自分も半病人なので都農まで出向けない。是非お越し願いたい−。 母マキの病気を口実にされて佐太郎も仕方なく夫妻そろって坪谷を訪れた。 牧水の話を聞いても初めから釈然とせぬ面持ちを露骨にした。それに『文学に専念するため数日中にも再度上京する』という義弟の考えに真向うから反対した。 文芸雑誌とやらを出版して果たして幾らの定収入があるのかー。堅実一方の商人らしくソロバンづくで問いつめる佐太郎に、牧水の答えは終始しどろもどろであった。 それどころか、処女歌集『海の声』出版費用の清算をしなければならない。その金の捻出が念頭にある。 肉親縁者たちの理解をとりつける説明ができる状態ではなかった。 河野夫妻はー晩泊って帰って行った。さじを投げた。そんなそぶりであった。 つづき 第46週の掲載予定日・・・平成20年10月12日(日) |
小 枝 子 (10p目/19pの内) ![]() 挿画 児玉悦夫 |