第 53 週 平成20年11月30日(日)〜平成20年12月6日(土) 

第54週の掲載予定日・・・平成20年12月7日(日)

おとろへはてて
(2p目/3pの内)




 挿画 児玉悦夫
 啄木の古い障子紙のような顔の皮膚がわずかに動いてほほえんだかに見えた。瞳に灯がともったとも感じられた。
 ほんとに一語二語しぼり出すように言葉がもれ出た。
 『きのうは、ありがとう、土岐君がきて、薬も買えた』
 こみあげてくる涙と鴫咽をおさえて 『石川君、もう大丈夫だよ』
 彼はまだ意識を確かに持っていた。
 『−死にたく、ない』
 そう、訴えた。
 そのうちに気分もおちつき雑誌『自然』の話をするほどになった。金田一は『これなら大丈夫だから−』と、用をすませるため帰って行った。
 座をはずしていた節子が啄木の耳に口をくっつけるようにして語りかけた。
 『若山さんですよ、わかりますか。−若山さん、主人はね。今朝、午前三時半頃から昏酔状態“て何ひとつわからなかったんですよ』
 小康状態を得て節子も気をとりなおしたようだった。啄木は妻の話を耳にしながら牧水の顔を見た。
 口をもぐもぐ動かしたが言葉にならなかった。顔にかすかな笑みが浮かんだ。 だが、それが牧水に別れの微笑になった。その後はまた昏酔状態に陥りしだいに呼吸も間遠くなってきた。
 いつの間にきたものか、啄木の老父が枕元でほとんど脈博が感じられなくなった一人息子の手をとっていた。
 牧水は危いと直感して二人の娘を探しに部屋を出た。だが、遊びに行ったものか姿が見えない。あわてて引き返すと、老父と節子が双方からやせおとろえて布団の盛り上がりすらない啄木の身体に身を投げかけていた。
 しのびやかに泣く二人には無言で啄木の額に手をあててみた。冷くなっていた。老父が枕元の時計をぬれた眼で確かめた。
 午前九時三十分。天才啄木は肺結核によって二十七年の波乱の生涯を閉じた。
 医者への連絡、電報、警察、葬儀社への手配等々に牧水は追いまくられた。四月半ばの陽気にしばしば目がくらんだ。
 その夜が通夜になった。午後から来ていた知人らも帰り、あとは老父、妻、牧水の三人になった。夫と同じ病を患う節子を早目にやすませた。
 いよいよ残るのは二人きりになった。老父は啄木の幼児の頃の思い出を語ったのち歌一首を詠んで示した。

   『母みまかりて中陰のうちにまたその子うせければ』 と題して

    親とりのゆくえたつねて子すゝめの死出の山路をいそくなるらむ

  春の夜が明けた。牧水が立って雨戸を繰った。狭い庭に雪があった。いや、はれぼったい眼に雪と見えたのは、庭一面に散りしいた八重桜の白い花びらであった。
 明け方の風が頬につめたい。その頬を温い涙が幾筋も糸をひいた。
 『啄木君は死んだ、のだ』
 その思いが牧水の胸に実感としてはじめて湧いてきた。
 葬儀は一日おいて十五日に土岐哀栗の実家で兄が住職をしている浅草の真宗大谷派等光寺で営まれた。
 その前日まで牧水は親身も及ばぬ世話をしたが、都合で葬式に出られなかった。啄木の没後、一家は離散した。
 老父はまた北海道に縁者をたよって渡り、妻節子は妊娠中の身を房州に運んで療養した。
 牧水が啄木を知ったのは四十三年十一月、信州の旅から帰って間もなく、佐藤緑葉、北原白秋、山本鼎らと浅草で遊んでの帰途、田原町付近の街中で会って紹介されたのだった。
 その後、『創作』に啄木の原稿を寄せてもらったし、四十四年二月頃、本郷弓町の『喜之床』の二階に住んでいた彼をたずねては文芸談などをかわしている。
 思想も作歌の傾向も異なる牧水と啄木であるが、互いに持って生まれた資質を高く評価していた。牧水は啄木の死後すぐ親友の平賀春郊に葉書をしたためている。
 『石川啄木君今朝九時三十分終に不帰の人となれり、枕頭には彼の父、妻、娘及び小生、寂しいとも寂しい臨終であった。
 自然初号を啄木追悼号としようじゃないか、その相談もあるので、明朝僕の処へ来てくれ玉へ。もっとも論文でも書きかけていたならよろしい。原田君も来るだろう』
 啄木の死の十三日出している。
 日本の南と北にほぼ時を同じくして生まれたわが国の代表的歌人、牧水と啄木の交際はほんの短時日で終わった。
 しかし、『飲むべき薬さへ飲んだら−』限りない生への執着を文字通り血を吐く言葉にして逝った啄木の臨終に肉親以外で居合わせたのは牧水ただ一人であった。
 縁の不思議を思わずにはいられない。
 牧水は春郊と西村に伝えているとおり『自然』の創刊号か第二号を『啄木追悼号』にするつもりだった。だが、『自然』は初号だけで廃刊したため果たせなかった。
 
    初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろへはてて君死ににけり
 
    君が娘は庭のかたへの八重桜散りしを拾ひうつつとも無し

  啄木の死の当日詠んだ歌四首を大正元年九月発刊の歌集『死か芸術か』に収録する。
おとろへはてて
(3p目/3pの内)




 挿画  児玉悦夫
みなかみ時代
(1p目/12pの内)





挿画 児玉悦夫
 雑誌『自然』創刊号は一号限りで続かなかった。資金切れが原因であった。このあと牧水一家の経済は二進も三進もいかなくなった。
 雑誌発行のための借金と、喜志子の部屋に同居するまで下宿していた東雲館の下宿代の残りがある。その返済と毎日の生活費の工面に追われて牧水は友人知人間をあてもなく回った。喜志子は唯一の収入の道である遊女の着物の賃縫いに精を出していた。
 五月末には神奈川県の三崎町に行った。結婚前、喜志子に『一緒に出かけて、海を知らぬ貴女に海を見せたい』と手紙に書いてやった漁港だ。
 だが、現在の若山家にその余裕などない。歌集『死か芸術か』に収録する歌が少ないので作歌のための遠出であった。喜志子が賃縫いで得た僅かばかりの金をふところにして牧水一人で行った。
 わずか三日ばかりの滞在であったが、朝な夕な明るい初夏の海に対しているとうつうつとした心もいつしか晴れてきた。
 作歌も思いのほか捗り百十一首を詠んだ。

    わが眠る崎の港をうす青き油絵具に染めて雨ふる

   わが廿八歳のさびしき五月終るころよべもこよひも崎は地震(なゐ)する

 三崎から帰ったあとも同じような生活が続いている。ただ、同じ貧窮の底にあっても新妻と共にいる。そこだけに光がさしている。そんな暮らしぶりだった。 

  まづしくて蚊帳なき家にみつふたつ蚊なき出でぬ、添ひ臥をする

  かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆうぐれ

 夏の盛りの七月二十日、坪谷からの電報に驚いた。『チチキトク、スグカへレ』とある。
 だが、帰る旅費がない。借りるあてもないので準備中の『死か芸術か』の歌稿を大急ぎでまとめて東雲堂に渡した。西村に頼み込んで稿料の前渡しを受けて二十二日夕、新橋駅から汽車に乗った。
 坪谷の家には二十五日に帰り着いた。
 気も動転する思いで帰りを急いだのだが、父の病気は中風で危倶した程の容態ではなかった。それはほっとしたが、郷里にはもっと深刻な問題が彼を待っていた。
 牧水は早稲田大学英文科を卒業した四十一年の九月上旬に帰郷、同月末に上京して以来、坪谷へはほとんど音信不通の状態で過ごしてきた。
 彼を迎えた肉親や親族、それに坪谷の村人たちの眼は冷たさを通り越して憎悪の色さえ滞びていた。
 すぐさま、河野佐太郎らが集まって親族会議が開かれた。
 親族会議の懸案は牧水の今後の身の振り方ただ一事であった。
 長姉ス工、次姉トモら夫婦が集まった座でまずス工の夫河野佐太郎が口火を切った。
 『繁、もういい加減に身を固めんか−。大学を出てから今日までお前は東京で何をしてきたつか−。送金どころか葉書一枚くれはせん。お父っつあんを見てみよ。どんげ苦労をしてきたもんか。もう東京に戻ることはオレどんが許さん。
 東京に出らんでん仕事はある。村の小学校の教員になるか、役場にでも使ってもらえ。そうすりゃ、曲りなりでも若山家は立っていく。お前ももう三十に間がなかろうが。七十に手の届く父親に心配ばかりかけて、それでん大学出、いや人間と言えるかい。なあ、今西先生−』
 次姉トモの夫で小学校長をしている今西吾郎に同意を求めた。
 今西は、牧水の東京遊学に賛成して両親や佐太郎を説得してくれた。牧水の将来を確信したうえでのことだった。しかし、今は違う。牧水の自堕落としか言いようのない東京の生活ぶりに失望していた。
 『繁よ、お前は両親や姉さんたちにも顔向けできまいが。いまからでも遅くはない。ここにとどまって人生をやり直せ。お前ほどの男なら田舎にいても必ず一かどの男にはなれる。正直言って僕も腹を立てている。それでもまだお前には望みをかけている』。
 佐太郎ほど辛辣な言葉は投げかけなかった。それだけに牧水の心には痛かった。
 牧水は彼らの前で一言も弁解できなかった。言っても理解してもらえる道理がなかった。ただ、黙って厳しいむちに耐えているしかなかった。そして 『折角大学を卒業したんだから中学教師か新聞記者にでもなりたい』
 就職口が見つかればそうなって故郷に落ち着こう。老いた両親のたよりなげな様子を見てはそう言うよりはかはなかった。
 八月中旬には平賀春郊から宮崎に帰っていると連絡があった。救われるような思いで彼に会いに行った。
 無論、立蔵、マキには就職先を探しに行くと告げて出た。
 宮崎滞在六日、平賀も心配してくれてあちこちつてを求めて回ったが、おいそれと職はなかった。
 帰りに都農の河野宅に寄って滞在、坪谷には九月一目に帰り着いた。その後も就職口を探したが、格好の勤め先はなかった。
 牧水は、二階の北向きのうす暗い部屋で終日本を読んだり物思いにふけって過ごす日が多かった。

   
つづき 第54週の掲載予定日・・・平成20年12月7日(日)
みなかみ時代
(2p目/12pの内)





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