第 54 週 平成20年12月7日(日)〜平成20年12月13日(土)
第55週の掲載予定日・・・平成20年12月14日(日)
みなかみ時代 (3p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |
父立蔵の病は牧水の帰郷後日一日と快方に向かっていた。息子のいまの境遇に心を痛めているのは佐太郎らと変わりはない。 だが、根っからの好人物で楽天家の彼はそういつまでも牧水を責めようとはしない。むしろ、家にいてくれる、ただそれだけで安堵しているところがあった。 『繁よ、昔から生きちょるもんにゃ餌がそうち言うもんじゃ。そのうちいい仕事が見つかるが』 気丈な母マキの眼をぬすんで息子に言葉をかける温和な立蔵であった。 わがそばにこころぬけたるすがたしてとすれば父の来て居ること多し その父に気付いてさしさわりのない東京の話などおもしろく語って聞かせることもあった。立蔵は重苦しい家内の空気を払いのけるようにからからと笑った。 はたはたとよろこぶ父のあから顔この世ならぬ尊さに涙おちぬれ だが、これも落塊の子への気づかいであることを牧水は知っている。尾鈴連山に傾く秋の夕陽が射す西側の窓辺に座って戸外を見るともなしに眺めている父の背中にその思いがにじんでいる。 さきのこと思ふときならめ善き父の眉ぞくもれる眉ぞ曇れる 家に居てばかりでは気づまりでならない。散歩に出たいが村人の眼が怖い。家の裏山から後田に抜ける和田の越に登った。ここには三年前の台風で山の斜面から転げ落ちた巨岩が居座っている。 その巨岩に腰をおろしてはるかな尾鈴山とすぐ眼下を流れる坪谷川を眺めた。寝ころんで半日も本を読んでいることもある。 いつか心もなどんでくる。しばらく遠ざかっている作歌の心も動いてきた。 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り 身体を巨岩に置きながら心は空を駈けて東京にあることもあった。 一ところ山に夕日のさせるごと東京の市街(まち)をおもひてぞ居る 寸ばかりちひさき絵にも似て見ゆれおもひつめたる秋の東京 東京・新宿の酒屋の二階にひとり残してきた新妻喜志子はいまは信州の広丘村に帰っている。十月十日、実家で身を小さくしているに違いない彼女に手紙を出した。 『うちでもそろそろ持てあましかけて来た。出られる時期もあまり遠くはあるまい。僕はかえって東京に行くということが今では恐しくなっているくらいだ。出て行ってどうして暮らすことだろうなどと患っている』 それでも行きたい東京であった。 |
牧水がいない東京で第五歌集『死か芸術か』が東雲堂から発行された。 この年の七月三十日、明治天皇が崩御された。おんとし六十一歳。皇太子が践祚され大正と改元された。 『死か芸術か』には『路上』以後一年間の作品三百八十六首を収めた。発行は大正元年九月二十三日。牧水のもとには十月末になって ようやく届いた。巻頭に次の歌をおいた。 蒼ざめし額つめたく濡れわたり月夜の夏の街を我が行く 同じころ信濃の喜志子から手紙が届いた。妊娠していることと、生まれくる子供のためにも早く入籍して欲しい−と言ってきていた。 結婚していれば当然考えておかねばならぬことであった。だが、身辺のあわただしさからうかつに過ごしていた。 早速、返事をしたためた。 長い手紙には、実家でお産するのは苦痛だろうが今の境遇だ、ぜひそうして欲しい。入籍の方は母といま気まずいことになっているが四、五日うちには話をする。そう答えたあと生まれてくる子への思いを書き添えた。 『僕ははずかしいが、君のそのおなかの子どもが可愛くてならぬ。僕自身がそこにいるようにのみ思える。君を恋しく思い、その子をかわゆく思う。青いいのちの芽ざし、僕等はまことに新しい生命の日に入るのである』。 約束どおりに四、五目して喜志子のことを両親に打ち明けた。そして入籍のことを相談した。 薮から棒の話に二人は驚き怒りもした。たまたま帰っていたス工は『いくらなんでも身勝手すぎる』と繰り返しなじった。 だが、すでに身ごもっている以上反対のしょうがない。両親たちもしぶしぶ納得するほかはなかった。 入籍の話はどうにか片付いたが、上京の話になって空気は険悪に変わった。喜志子と生まれくる子供を育てるために生活を安定させねばならない。 帰郷後あちこち手を尽くしてはいるが、郷里にいてはそのめどが立たない。生活のために上京しなければならない。それが牧水の言い分だった。 就職口がない実情から牧水の言い分がわからぬではない。だがそれは理屈の上のこと。両親、とくにマキとス工には、それが牧水が逃げ出すための口実としか聞こえない。 親子の間の烈しいいさかいが再燃した。 いたたまれなくなった牧水はそのあと家を飛び出して二、三日山陰の叔父純曽の家に行っていた。 帰ってからもまたその話の蒸し返しだった。そこで牧水は上京のための条件を出した。 |
みなかみ時代 (4p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |
みなかみ時代 (5p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |
牧水は言った。 ただ今の生活のためにも将来のことを考えても東京に出るよりほかに身の立てようがない。と言って故郷の事を忘れてはいない。 今までと違って女房もいる。やがて子供も生まれてくる。心を引き締めて生活を建て直す決心だが、その中から必ず毎月十円ずつを坪谷に送金する。 今までの自分では信用が薄いと思うが、結婚を申し込んだ時から喜志子にはその事を話している。彼女も内職を続けても助けたいと言ってくれている。信じて欲しい。 それでもまだ心もとないというのなら、よければ父上だけでも東京で一緒に暮らして欲しい。これまでの不孝の償いをさせてもらうつもりでいる。 声をつまらせながら両親とス工、シヅの二人の姉をかきくどいた。母は口をつぐんだきりだったが、父立蔵は息子の言葉に早くから心を動かされていた。やがては 『繁がこれほどまでに言うちょる。東京にはおれどものような田舎者では察しのつかんこともある。ここは繁の身の立つようにしてやった方がゆくゆくは家のためになる』 牧水の肩を持つようになり、そのためにマキやス工からきつい言葉を投げられた。 牧水に対する期待を最も多く抱いていたのは立蔵だ。それだけに無念さも胸に余る。しかし、みんなで責め立てては立つ瀬があるまい。おのずとかばう姿勢になった。 妻や娘たちの気持を痛いほど察しながらつとめて明るい方へ明るい方へ話題を持っていこうとする父であった。 ひとを憚りてわれを叱れる父の声きかむとして先づ涙おちぬれ 母をおもへばわが家は玉のごとく冷たし父をおもへば山のごとく温かし マキは村でも気丈で通った人であるが、牧水には幼児から異常なまでに深い愛情を注いできている。 大学在学中の学資送金にしても、河野佐太郎に頭をさげたのは彼女であった。神戸の弟たちにも恥をしのんで無心をしている。 志を得ぬまま身を故郷に寄せているわが子をあわれと思う心は人一倍だ。しかし、それを言葉に表しては親族や世間に顔が立たない。そのために厳しくあたるところがあった。 われを恨み罵りしはてに嘆(つぐ)たる母のくちもとにひとつの歯もなき あわれみのこころし湧けるときならむしみじみものいふ母の悲しも −尾鈴連山の山膚が黄に紅に衣替えして秋は深まっていった。 十一月十四日朝、牧水は朝食後、和田の越に散歩に出た。そこへきぬが駆けてきた。 |
『繁叔父さあん、じいちゃんがあー』 末姉シヅの娘きぬが泣きながら坂道を登ってきた。子供心にも叔父のつらい立場に同情して牧水の部屋に鏡台を置くという姪である。 今朝、牧水が二階から降りていくと台所に丹前を着たままの父が布団にくるまっている。いぶかしんで 『どうしたつの』 問うと、母が苦笑しなから言った。 『なあに、ゆうべ飲み過ぎてそのまんま寝たつよ。まあだ飲み続けちょる夢でも見ちょりやるとじゃろ』 久々の母の軽口を牧水は明るく受けとった。そそくさと朝食をすませていつもの通り和田の越に登ってきたばかりだった。 驚いてかけ降りたが、その時は父はすでに意識がなかった。牧水がひざに抱きかかえて口移しに水をふくませてものどをくだらなかった。 叔父純曽らが駆けつけて注射をしたが効果はなくそのまま眠るように逝った。午前十時四十分。脳溢血であった。 翌日、葬儀が営まれた。故人は二代続いた若山医院の院長であり、無類の好人物で世話を受けた人も多い。葬儀は盛大であった。 遺体は若山医院から三、四百b離れた山裾に葬られた。法名観量院源空浄選居士。行年六十八歳であった。 立蔵は牧水が上京の条件に出した東京行きを本気で楽しみにしていた。 『繁よ、体のぐあいもだんだんよくなったごとある。来春にはお前と東京に出てみるわい。大学病院やらを見さしてくりいよ。そして、江戸前料理ちいうやつで一杯やってみるかのう』 このことを近所の人たちにも語っていた。子供のように純真な人であった。 心配のかけどうLで父を死なせてしまった。真新しい位牌に手を合わせて牧水は声をあげて泣いた。 思えばよく似た父と子であった。酒も好んだし、常に何かを夢みては苦労を重ねてきた。少なからず家族にも周囲の人にも迷惑をかけた。それでいて憎めない人であった。 延岡中学時代、夏休みで帰っている牧水のために朝から細島の走り魚屋の魚を買った。自分で刺身をつくって井戸につるしておいて牧水が二階から降りてくるのを待っていた。 『繁よ、刺身がよう冷えてうまいぞ』 息子を相手に二、三合の酒をさもうまそう に口に運ぶ父であった。 御墓にまうでては水さし花をさす甲斐なきわざをわがなせるかな 喪の家の炉辺榾火のかげに赤き母の指姉が指我が指のさびしさよ つづき 第55週の掲載予定日・・・平成20年12月14日(日) |
みなかみ時代 (6p目/12pの内) 挿画 児玉悦夫 |