第 55 週 平成20年12月14日(日)〜平成20年12月20日(土) 

第56週の掲載予定日・・・平成20年12月21日(日)

みなかみ時代
(7p目/12pの内)




 挿画 児玉悦夫
 父の死を悲しんでばかりはいられなかった。このあとどうするか、牧水の身の振り方が改めて問題になった。
 初七日の夜の親族の集まりがそのまま親族会議になった。河野佐太郎、今西吾郎ら長姉と次姉のつれあいをはじめ親族一同の意見は、このまま郷里にとどまって老いた母を安心させること。その事で一致していた。
 折角、上京の望みが出たのに最もよき理解者であった父の死で元の木阿弥、話はまたぞろ振り出しに戻った。
 牧水はまた同じ考えをくどくどと述べるだけだったが、父を失ったいまではその言葉にも力がなかった。一語一語にはらはらと涙が先に立った。
 たまりかねて末姉のシヅが口をはさんだ。
 『−あれもああ言うんじゃが、なんとかしてやれんもんじゃろか』
 言葉が終わらぬうちに佐太郎の激しい叱声が飛んだ。
 『お前どもが、何を生意気言うか。世の中もようわかりもせんくせにしかしかもねえ』
 いつもなら、それで二言もないシヅが、その夜はあとにひかなかった。
 『お母さんと私どんをどうにか養ってくれさえすればそれでいいじゃねえの。…河野の兄さん、そんならあんたが私らの一生を見てくれますかの』
 足の不自由な身体をにじり寄せるようにして言いつのった。しかし、親族らの心を動かす力はなかった。
 マキは黙って話し合いの成り行きを見守っていた。立蔵の死後、めっきり肩の肉が落ちて見えた。
 結局は、親族としては牧水の上京は認めない。それを押し切って出るか、留まるかは牧水の決心しだいだ。下駄を彼一人に預けた格好で親族会議は散会した。
 その夜、牧水はまんじりともしなかった。佐太郎兄や吉郎兄の意見に無理はなかった。父の死後、あの気丈な母が実にたよりなげに見えてきた。その分、自分によりかかってきているのがわかる。
 その母を置いて東京に行く。立場を変えて考えた場合、果たしてたった一人の息子として許されることだろうか−。
 それに、家族、親族とも喜志子を坪谷に呼び寄せるように言っている。故郷に居付きさえすれば相談ひとつなかった妻を身内として温かく迎えようというのである。
 迷いに迷ったあげく喜志子あてに手紙を出した。十一月二十三日である。  『出て行こうかと考え、留まろうかと思い、実に悩んでいる。出来るなら、君にこちらに来てもらいたいと思う−』
 『−そしてあとで出るにしても、当分でもこちらに留りたいと先ず思う。来ても君の予想ほどつらいことは決してない。それは私がたしかに受合う。母も実にものの解った人である。一種の意地から私をいじめていたが、父の死は私よりむしろ彼女に烈しく影響した。意地も何もなく私にたよっている。  これよりは彼女も父のごとく、父よりも濃かに好きな人となるであろうと思う。他の家族は問題でない。
 どうだろう。来てくれる気があるだろうか。
 お前をこちらに呼ぶのも、心からの私の希望ではない。いろいろその間にも心苦しいことがある。けれども他と比べて、それがよりよき処置である。しかたのないことであると信ずる故である。私の心をも酌んでくれ』

   ものいはぬわれを見守る老母の顔、ゆふぐれの炉辺の与す暗さよ

   わが厨の狭き深き入口に夕陽さし淵のごとし嘆みて母の働ける

 老い母にとってたよりとするのは若山家のたった一人の男である自分以外にない。父存命中は玉の如き母を怖れていた。その母が、いまは息子が何を考えているのか、うかがうような悲しい眼で自分を見ている。
 その母への断ち切れぬ思いから喜志子に坪谷に来てくれるよう言ってやった。その言葉にうそいつわりはない。
 だが、だがそれで果たして自分の将来に悔いはないか−。あなたに立派な文学者になっていただくために私は私の一生を賭ける。そうまで言ってくれた喜志子の真心にそむくことになりはしないか−。
 いまは医師のいない若山医院のすぐ下を流れる坪谷川は幾重にも屈曲している。そして幾つもの瀬とよどみをつくって流れ行く−。
 牧水の思いも同じである。一夜ごとに東京か、故郷か。結んではほぐれ、はぐれて結ぶ心の迷いの繰り返しであった。
 十二月半ばには美々津の親類福田宅に遊びに行った。河口の傍の小料理屋でいつも漁師を相手にしている小女の酌で酒を飲んだ。
 神武天皇のお船出で知られる美々津港から小舟に揺られて対岸にも渡った。絶壁をはい登るとたたみ十数畳敷きはどの平地がある。そこからはるか日向灘の紺青の水平線が望めた。権現崎である。

   水平線が鋸の刃のごとく見ゆ、太陽の真下の浪のいたましさよ

  孤独よ黒鉄(くろがね)のごときこの岩の上にあざやかに我が陰翳を刻め                                                坪谷に帰ってからこの方、かなりの歌を作った。その歌のほとんどが三十一文字の約束を破棄した口語体の歌であった。
 海に来てさえそうであった。
みなかみ時代
(8p目/12pの内)




 挿画  児玉悦夫
みなかみ時代
(9p目/12pの内)





挿画 児玉悦夫
 大正二年の元旦をひっそりと迎えた。父の喪中であるうえに、牧水のこれからの事が家族の思いの上に重苦しくかぶさっている。
 底冷えのする若山家を訪れる人もなかった。
 それでも二日の朝は、牧水が汲みこんだ若水で朝ぶろをたてた。そのあとで朝の膳を囲んだ。箸をとる前に母マキ、姉シヅ、それに姪のきぬにも牧水が酒を酌してやった。
 昨年までは父立蔵がした若山家の当主のならいである。これまでは何気なかったしきたりが重々しく感じられた。『ことしはいい年でありますように−』。母がちょっと頭をさげて静かな酒が始まった。
 僅かな酒量だったが、湯あがりの朝酒の回りは早い。ほてった身体を囲炉裏の傍にのばしていると、郵便配達の声がした。年賀の封書や葉書に混じって大牟田の短歌雑誌『暖潮』から新年歌会の案内状がきていた。
 歌会は五日、旅費滞在費は当方で負担するから是非出席して欲しいとあった。鹿児島市在住の森園天涙の紹介だった。
 大牟田には従兄の若山峻一がいる。自分の身の振り方や坪谷のことなど相談したかった。渡りに舟の好都合と考え、その日の夕方には坪谷を出発、細島港から別府行きの夜の船便に乗った。
 翌朝、別府港に着いた。この地に滞在中の友人と会って一泊するつもりだったが、彼は前夜、延岡向けて立っていた。
 仕方なくその晩はひとり旅館港屋に泊って、夜は流川通りあたりを深夜まで飲んで歩いた。
 大牟田に着いたのは四日夜、早速、商家の二階に妻と二人住んでいる峻一を訪ねた。もともと経済観念の乏しい彼であった。夫婦の生活ぶりは予想以上に貧しかった。
 会ったら力になってもらおうと考えて来たのだが、その様子では到底切り出せなかった。不如意の中から工面してきたことがありありと察しられる酒をただ黙って飲むだけだった。
 大牟田には二十日ほど滞在した。その間に博多に行き、島原にも渡った。雑誌『暖潮』の新年歌会のほかに小さな歌人の集まりにも招かれた。
 行けば必ず酒、それも深夜に及んだが、心はうつうつとして楽しむことがなかった。一月二十七日には大牟田を出発、鹿児島に足を伸ばした。森園や中学時代の回覧雑誌『野虹』の同人前田霧岳らと会って、坪谷に帰り着いたのは二月三日になっていた。
 ほぼ九州を一周してきた。
 長旅の疲労と旧正月の騒々しさの中でぼんやり二階の部屋で過ごす日が多かった。そしてその月の下旬、無為に日を送っている息子をあわれと感じたものか、母マキが牧水の上京を許してくれた。
 母マキに河野佐太郎ら親族の者たちも半ばあきらめて上京に同意したものだった。それがわかっているから、許しを得たものの牧水の心は弾まなかった。  それに第一旅費がない。家族や親族に無心が言えた義理じゃない。五月ごろを目途に金を作ることにした。
 三月、山桜の花が山腹を点々と彩るころに美々津に出た。海に向かって大きく呼吸をすると、ふさがれた胸が開かれる思いがした。

   とある雲のかたちに夏をおもひいでぬ三月の海のさびしき紫紺

   海よかげれ水平線の拗みより雲よ出で来て海わたれかし

   春あさき田じりに出でて野芹つむ母のこころに休(やすら)ひのあれ

 四月二十四日には信濃の太田方で喜志子が長男を産んだ。旅人と命名された。
 喜志子あてに三月二十六日に出した手紙に命名のことは言ってあった。
 『−名前は、男なら旅人(たびと)としろと言っておいたが、幼な名の呼声にタビちゃんでは少々振わないから牧人(まきと) にしてもよかろうかと思いだした。二つのうち、お前のいいのを選ぶがいいー』
 喜志子は迷いなく旅人とした。現実に旅を愛し、そして人生そのものを旅と考えている夫に思いをはせてのことだった。
 彼女あてに祝いの便りを出したのはずっと遅れて五月三日になった。
 『いよいよ御安産。ことに御希望通りのチンチン持ちだったそうで、大いに愉快のことと思う。僕も妙に気がいそいそしている。金を送りたいし、いろいろ思うことが多いけれど、どうも思うにまかせぬのですぐこの祝い手紙をかくことさえできなかった。お前もさぞつらいことと思う。
 旅費にとあつめたのを少し持ってるけれど、これを手離してはあとしばらくまた田舎ぐらしだ。二円や三円送るのはいやだし、いっそのこと眼をつぶって知らぬふりをきめ込もうと思う』
 牧水は『チチキトク』の電報で坪谷に帰ってから今日まで喜志子に送金したのは僅かに一度、二月九日に読売新聞の歌の選料として送ってきた四円の為替を手紙に同封してやっただけである。
 喜志子からは自分で縫った着物や、近所の者が獲ったという鴨まで小包にして送ってきている。その鴨をさかなに父立蔵と昼から盃を傾けたのもいまはなつかしい思い出になっている。
 それだけに実家で出産した妻の肩身のせまさが思いやられた。だが、今の牧水にはまとまった金を作れるあてはなかった。

   
つづき 第56週の掲載予定日・・・平成20年12月21日(日)
みなかみ時代
(10p目/12pの内)





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