第 74 週 平成21年4月26日(日)〜平成21年5月2日(土)
第75週の掲載予定日・・・平成21年5月3日(日)
樹木とその葉 (16p目/16pの内) 挿画 児玉悦夫 |
日光板挽町の斎藤方ではすぐに酒になった。それが夕刻まで続いて、夜はいまが時季だと言う焼鳥を食いに町の料理屋に行った。 斎藤が語るには、この家の息子は歌詠みだったが、数日前失恋を苦に榛名湖に入水自殺したと言う。牧水は息子の名前を聞いて驚いた。創作社の古い社友であった。 一人残された妹を部屋に招いた。昼からの酒の酔いもさめてしめやかな一夜になった。 翌日は斎藤の案内で日光山内の社殿を見て回った。すると、昨夜の妹が友人三人を伴って後を追って来た。いずれも歌を詠むと言う。 茶屋に休憩して牧水と斎藤は迎え酒、彼女らは薄茶をのんだ。妹は牧水の顔から眼をそらして語った。淡々とした口調に聞こえた。 『兄は、腰に萩の花をいっぱいさして湖水の底に眠っていました』。 しばたたく牧水の眼に茶屋の庭の末枯れた萩のひとむらが映った。 斎藤方に二泊の後、宇都宮、喜連川、東京と泊り継いで十一月五日夜、喜志子らが待つ沼津の家に帰り着いた。二十日余の旅だ。この間に詠んだ歌百二十五首を『山桜の歌』に収録した。 草鞋よ お前もいよいよ切れるか 今日 昨日 一昨日(おととい) これで三日履いて来た 履上手の私と 出来のいxお前と 二人して越えて来た 山川のあとをしのぶに 捨てられぬおもひぞする なつかしきこれの草鞋よ(枯野の旅) 旅行のあとは二日程休養しただけで留守中たまっていた選歌、編集の仕事を片付けた。多忙の毎日だった。 『創作』の編集、発行に意欲的に取り組む一方で、沼津永住の条件になる自宅建築を実行に移すことになった。その資金作りのため、十二月に入って東京の細野春翠の協力で半折短冊揮毫会の準備をすすめることにした。 一方で、健康を考えて信州の連山が純白に見えるわが家の庭に出て冷水まさつもはじめた。そのころの『命を惜しむ歌』。 衰ふるいのちとどむと朝々をとく起きいでて水浴ぶるあはれ 水あびて眉にしたたる雫みればわがたましひも澄む心地すれ 大正十一年は暮れた。この年、巷に『篭の烏』『馬賊の唄』『流浪の旅』の歌が流れ、ぺスト最後の流行で死者六十七人を数えた。 |
明けて大正十二年。牧水は一月十六日から伊豆土肥温泉の土肥館に行った。ここ数年、年明け早々から旅に出る習慣で、『創作』にも年末から年始にかけて温泉で静養する、と予告したが、それは繁多な年始客をさけるための方便で、東京にいる大悟法利雄を呼び寄せて静かに松の内を過ごしている。 土肥館ではいつもの二階の部屋で歌集『山桜の歌』の編集にかかった。『山桜の歌』は 『くろ土』に次ぐ第十四歌集で、『空に立つ煙のかげに燃え入りて色さびはてし昼の野火かも』を巻頭に大正十、十一年に詠んだ歌七百四十一首を収めて、この年の五月、新潮社から出版される。 土肥には二月五日まで滞在、この間に歌九首を作っている。第十五歌集『黒松』巻頭の 『土肥温泉雑詠』がそれで、九首のうち四首は沼僕て留守居する喜志子をしのぶ歌である。愛妻家牧水の面目躍如と言うべきか−。 人妻のはしきを見ればときめきておもひは走る留守居する妻 大雪は沼津にも降らむ驚きて眺め入りたる妻をしぞおもふ 肌にややかなしきさびの見えそめぬ四人子の母のはしきわが妻 をとめ子のかなしき心持つ妻を四人子の母とおもふかなしさ 牧水は滞在中に全集に収録されている分だけでも十二通の手紙、絵葉書を喜志子に出している。例の如くだ。喜志子からの返書またしかりだ。だから一月二十五日付けの手紙で牧水は『−手紙のこと、少々、キマリがわるくないでもない、女中がイヤミを言ったぜ。毎日と限らずにおくか』。てれている。 四人の子を持つ夫と妻ながら、現代ならば毎日電話しなければ夜が明けぬ恋人同士の愛を持ち続けている。二十三日付けの牧水の手紙の一節がそれを物語る。 『−あきらめていた郵便が、いまヒョッコリ来た。船がとまれば陸を回すのだそうだ (荒天で船便なし・筆者注)。お前の手紙を何よりさきに封を切り、一、二行と読みゆくうちに自分の瞳が無くなるのを感じ、やがて全身にまで及んだ。 有難う、有難う、とだけしかいまは言えない。全身にお前の熱と力を感じている。とにかく我等は幸福である。祈りたい心を覚える』 土肥館には、笹田登美三、大悟法利雄の二人も一月下旬に呼ばれ、『創作』の編集を手伝っているが、牧水としては、格別寒気が強いこの年の冬を数日間でも温暖な士肥温泉で過ごさせてやりたい気持からだった。 また、東郷町山陰出身で上京中の黒木伝松にも同郷の後輩を案ずる真情のこもった手紙を出している。 |
土肥だより (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
土肥だより (2p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
黒木伝松は明治三十三年三月、日向市日知屋に生まれたが、鍛治職の父母に連れられて牧水の故郷坪谷に移っている。高小卒業後は東郷町鶴野内に転居、父の仕事を手伝った。 東郷小学校下の家の仕事場でフイゴを押しながら読書に余念がなかった向学の青年を、藤井満義(県会議長、日向市長、故人)、黒木松美(東郷村長、同)、小野弘(県議、東郷村、町長)、都甲鶴男(元南郷村教育長)ら後輩の小学生が畏敬の眼で見て通ったものである。 当時、東郷ては坪谷の越智渓水らを中心に矢野団治、黒木伝松、甲斐千代麿らの短歌愛好グループかあり、大正七年にこぞって『創作』に入社していた。伝松は父親の向こう槌を打ちながら歌作に励んでいた。 十一年二月、両親が相次いで死亡したため、姉の嫁ぎ先熊本県菊池郡泗水村(町)に移り呉服屋の店員になった。しかし、文学青年の彼に田舎の呉服店員は馴染めなかった。 十月、牧水を慕って上京、沼津の若山家を訪れた。郷土の大先輩として敬慕して今日に至っているが、会うのはもちろん初めて。 師に逢はむ心躍りは浜名湖をゆく汽車の窓あかるくぞ笑む 先生に逢ひ得てわれは嬉しくてこれが牧水としげしげ見たり その牧水の紹介で創作社友で東京在住の門林兵治の下宿に同居、下谷区の道路工夫を二ヵ月近くした。 通りゆく美しき少女と鶴嘴(つるはし)をうち振るわれと風に吹かるる 翌十二年初めから社友古川慰の紹介で大森町の特殊鋼工業に入社した。日給一円五銭。山谷の労務者飯場に住んだ。 寂しさをひたと守りて槌打たば槌しひびきて歌となるべし 土に這ひ顔あげて鳴くけだものの偽らぬ像(すがた)わが持たずけり 牧水が土肥館の二階から伝松あての手紙をしたためたのはちょうどその頃だった。 『黒木君、すっかり僕黙っていた。黙っている方がよいと思ったからだ。よく君はその心を知っててくれた。よく歩くべき道を君は独りで歩いていてくれる。有難いことにおもう。とにかく、しっかりしてくれたまえ。『伝松は可愛い男でしょう』などいう安っぽいことは言わぬがよい。心を、大きく高く持たねばならない。卑しくすると、一生それがつきまとう。 今日は大吹雪だ。東京が思いやられる。一杯飲みたいと思うが、大森と土肥じゃ話にならぬ。君一人でやりたまえ。三円入れとく。豚でも煮て飲む分にはこれで足りるだろう』。 ここまで読んで伝松は声をのんで泣いた。 |
笹田と大悟法は一月二十九日に帰って行った。牧水は翌月五日まで滞在した。連れの分まで含めると延べ三十日ほど土肥館に泊ったことになる。宿泊料が一泊三円。百円ほど支払って帰った。 少なくない滞在費だが、前年秋の旅を紀行文にまとめて雑誌に出せば二百円にはなる。喜志子に送金を頼む手紙に『−気を細くせずに(送って)くれ』と言ってやった。 帰宅すると、半折短冊会の準備を急いだ。その計画を『創作』三月号に(半折短冊会を起こすに就いて創作社々友諸君に申す言葉』と題して発表した。 沼津在には一時休養のつもりで移ったのだが、自分の勉強のためにも事業のためにも東京よりどれだけすぐれているか知れない。ここを永住の地として富士山を仰ぎ暮らすことに決めた。 ついては雑誌発行の事務所を兼ねた住居を造りたい。その経費が士地代を含めて一万円はかかる。しかし、自分は元来無一物なのでこの金を集めるために半折短冊を書いて頒布したい。頼みとするのは社友諸君だ。この会の期間を向こうーヵ年間とするので是非ご協力願いたい。 頒布の値段は(イ)短冊一枚三円、(ロ)色紙一枚四円、(ハ)半折一枚五円、(ニ)短冊五枚五色一組 (四季と雑)十二円、(ホ)色紙五枚五色一組 (同)十六円、(ヘ)半折五枚一組(同)二十円、(ト)短冊色紙半折各一枚一組十円。 頒布会の収入で一万円の建築費をまかなおうというのだから遠大な計画だ。牧水は、社友がいる限り日本全国に足をのばして会を開く意気込みである。 同時に延岡高小時代からの友人で当時東京で建築技師をしていた村井武に手紙を出した。一年間で資金を集める計画だが、半年もたてば大体の目途が立つ。その折に会い具体的な計画は相談するが、予め設計を頼んでおきたい。そう書いてやった。 三月初めには、牧水自らが描いた『夢想の家』の結構を村井に送った。 離室二室(小生の書斎)。六畳=洋室、応接室を兼ね、暖炉を設けたし。四畳半=和室、回り縁とし、囲炉裡を切りたし。六畳を東、北向き、和室を南、西向としたし。 母屋(六室)。四畳半、主婦室。三畳(又は四畳半)老母室、三畳子供室(ともに明るく暖かく)。二畳又は三畳)女中室。六畳、雑誌発行室(玄関を兼ぬ)、六畳茶の間。 二階(二室)六畳、三畳。他に台所(板敷)便所、湯殿、玄関(土間)、物置等。 同月中旬に村井が牧水の家を訪れ、細々と相談して帰った。『夢想』に忠実な設計図がほどなく届いた。 つづき 第75週の掲載予定日・・・平成21年5月3日(日) |
富士を仰いで (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |