第 75 週 平成21年5月3日(日)〜平成21年5月9日(土)
第76週の掲載予定日・・・平成21年5月10日(日)
富士を仰いで (2p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
四月一、二日に沼津で創作社全国社友大会を開いた。一日目は午前中講演会、午後短歌会、夜は懇親会。二日目は早朝から千本浜を散歩し、富士を見、地曳網を楽しむ計画を立てた。 計画から準備まで一切を牧水が進めた。参加者は約百人。同年七月に楊原村と合併して市制を施行する以前の沼津町は人口約二百人。水野氏ニ万石の旧城下町の情緒を色濃く町並みにただよわせている。 ここに全国から百人もの歌人を集めたのだから市民の耳目を集めるに十分だった。牧水は、わざわざ大会記念絵葉書まで作っている。 大成功のうちに大会は二日午後閉会したが、牧水、喜志子と残留の社友ら合わせて十一人が同日夕、伊豆長岡温泉に繰り出して泊った。翌日はさらに湯ケ島温泉に行って湯本館に泊った。さすがに他の社友は一泊して帰ったが牧水は細野春翠と七日まで残って沼津に帰っている。その間は大会の延長で酒々々の毎日になったことは言うまでもない。 大会の後遺症が四月いっぱい抜け切らず牧水は仕事にも手がつかぬ状態だった。 若い社友にあてた手紙に『−七日か八日に湯ケ島から帰りましたが、何しろ、腰は抜け、魂も抜け、わがみでわがみがわからない状態でありました(中略)。大会はホンに面白かった。一日より二日が、二日より三日が、という風にだんだん面白かった。毎年でも毎月でもやりたくなったが、毎年にしろ、やったとしたら命は幾つあっても足りません』。 牧水にとって生涯忘れ得ない大会になった。 ぼんやりと過ごしているところに都農町の姉河野スエから名産の雲丹(うに)が送ってきた。手紙によると、義兄の佐太郎が商用で留守なのと、河野家の養女になって婿を迎えている姪のハルの出産が間近いため老母マキも同家に来ている。 雲丹は牧水の好物だ。母と姉とが相談して送ってくれたものだ。牧水もお返しに沼津名物のわさび漬けとサンマの干物を送った。 『ワサビヅケはたべるだけ桶からとり出してそれに砂糖醤油を少しかけ、練るようにしてよくかきまぜてたべるのです。お刺身のツマなどに結構です(中略)。雲丹は福井、若狭、下関、長崎と雲丹の名所として知られるものをそれぞれとりよせてたべてみましたが、やはりちいさい時食べた都農のものが一番うまかったという気がしていたのですが、今度二十年目ぐらいにたべてみて、やはりその記憶が確かであったことを知りました』。 『創作』発行も順調、全国社友大会での感触だと、住居建築資金集めのための半折短冊会も成算がありそうだ。その安らぎの中で故郷の人と風物にしみじみ思いをはせていた。 |
七月、牧水は愛知県の鳳来寺山の仏法僧(ぶっぽうそう)の啼き声を聞く旅に出た。 沼津に往んでいて親しく往来していた創作社友の金沢修二が病気のため実家がある同県新城町に帰っていた。彼から付近の奥三河の名刹で、仏法僧で有名な鳳末寺を訪れるよう誘いがあっていた。仏法僧の啼き声が聞かれるのは四月から八月まで。だからなるべく早い時期に来て欲しいという便りだ。 牧水も、話に聞く珍鳥の声を聞く旅に大いに心を動かされた。六月にも行くつもりでいたところが、下痢に悩まされて延引していた。それが、七月七日から沼津に来ていた東京の村松道弥が金沢をたずねたいと言う。 まだ健康状態はほんとではなかったが、折角の道連れができた。思い切って行くことにした。 十二日朝、沼津駅から乗車して午後二時に豊橋着。出迎えていた金沢の案内で豊川線に乗り換え、途中下車して豊川稲荷に参詣して新城町の金沢方に行き、二泊した。十四日に登山の予定だったが、豪雨のため一日延ばして豊川渓谷にある湯谷温泉に牧水、村松、金沢とその姉の四人で行って泊まった。 十五日は雨もようやくあがった。昼過ぎの列車に乗って牧水と村松は長篠駅で下車、寒狭川に沿って鳳来寺山を目ざして歩いた。 鳳来寺山は標高六八四b。ほぼ全山を杉や樫の巨木がうっそうと覆っているが、頂上付近だけが岩肌を露出している。この山は赤石山系の火山で噴火しかけて中途でやみ、地底からの噴出物が凝固したもので、断崖絶壁になっている所もある。 牧水は滞在中、寺の僧侶に案内されて頂上に立ったが、遠く渥美半島とその反対の美濃、信濃路の山脈が雲の果てに消えるまで見渡せた。山の尾根が天然の展望ルートになっていたのである。 さて、長篠駅から約八キロ歩くと麓の集落に着いた。門谷と言い戸数七、八十戸ばかり。その家の何軒かには軒先に山駕篭や普通の町駕篭、をつるしているのが見られた。それほどにひなびた古い村であった。 日用品店に寄って『山上の寺に泊めてもらえるだろうか』たずねると、 『泊めてもらえましょうが、食べ物が不自由で。今夜の食事は村の宿屋ですませられてからの方がようございましょう』。 上品な物腰の内儀が言う。親切には感謝したが、夕食をとっていたのでは到底山には登れそうもない。そのまま寺に向かうことにした。杉木立の中に寺への石段があった。さっきの内儀が言っていた。 『一千八百七十七段あります』。 二人は休み休みその石段を登って行った。 |
仏 法 僧 (1p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
仏 法 僧 (2p目/2pの内) 挿画 児玉悦夫 |
長々と続く石段の途中の医王寺という寺に泊めてもらった。金沢の紹介があったらしい。絵葉書を買ってさらに山上の寺を向かおうとするのを『若山先生じゃありませんか』と呼び止められた。 それにこの上には徳川家康の廟東照宮の本殿があるだけで寺はない−と言う。元来は山の中腹に大宝二年(七〇二年)創建の鳳来寺があり、徳川時代は寺封千三百五十石、十九ヵ村。一山三十六坊の大伽藍を誇っていたが、明治になって寺封がなくなったうえ、明治ハ年と大正三年の二度の火災で本堂ほかの各坊を焼失、いまは医王、松高院の二堂が残るだけになっているーと言う。 現在、本堂再建の工事中で、牧水ら二人も屋根亙一枚ずつを寄進した。 その夜、夕食に酒を飲んでいると、若い憎が来て『いま仏法僧が啼いています』と言う。村松も一声か二声か、耳にしたと言うが、牧水の耳には届かなかった。 翌日、村松はまたも雨になった悪天候の中を帰って行った。牧水は独り医王院に滞在して仏法僧の声を待った。 この雨は、三日降り続いて十八日の午後ようやく晴れ間をのぞかせた。仏法僧は晴れぬと啼かぬと言う。今夜こそ、と心弾ませていた。すると、九時頃、半ばあきらめて床につこうとしたときに闇の中のどこからともなく寂びた呻き声が風に乗ってきた。 その夜、牧水は夜通し窓の下に座って聴いた。十九日の夜もよく呻いた。この鳥は夜半から呻きはじめ午前四時頃。ひぐらしが声をふるわせ始めるとぴたりと呻き止めた。 仏法僧はコノハズク(木葉木菟)。フクロウ科の最も小形のミミズクである。日本には四、五月ごろに渡来して深山に生息し、夏の夜に呻く。その声が『ぶっぽうそう』と聞こえると言うのだが、牧水には『ぶっ、ぼう』の二音の繰り返しに聞こえた。 しかし、その声は筒鳥とも敦公とも趣きが異なっていた。寂び、深みの中に一種の鋭さがあった。そして、この鳥はーヵ所にとどまらず星明かりだけの黒々とした山のあちこちを呻き渡った。 そのため、静まり返った山全体が、その声一つのために動いている。牧水にはそうとまで思えた。夜明け近い深山の冷気のなかで言い知れぬ感動を覚えて姿は見せぬ仏法僧の一声一声に耳を傾けていた。 二夜に満足して牧水は二十日鳳来寺山を降り、新城町の金沢方に一泊して沼津に帰った。 牧水は生来小鳥の呻き声を愛しているが、この二晩以来、とりわけ仏法僧の呻き声には強い執着を持った。 大正十五年の夏も再び鳳来寺山に登った。 |
八月八日から西伊豆の海岸西浦村古字に出かけた。牧水は、鳳来寺山登山当時からの身体の不調が続いていた。その療養と子供らの夏休み旅行を兼ねて行った。その村に往む創作社友の高島富峰の世話でただ一軒の旅館大谷屋の二階を借り切った。 旅人は一足早く四日から牧水は喜志子、みさき、真木子と一緒に行った。二男の富士人は留守番のねえやに預けて来た。 健康回復が目的だったから船頭を頼んでかなりの沖合いまで釣りに行ったり、子供を相手に海水浴を楽しむ時間に一日の多くをさいた。釣りは幼年時代から馴れている。水泳も、坪谷川、五ケ瀬川、日向灘の長浜で鍛えている。いずれも大谷屋の主人が舌を巻くほどの腕前だった。 十四日に喜志子と子供ら三人は帰ったが、旅人は一泊して古字では入手できない必要品を持って折り返しもどってきた。必要品には梅干、ノート、持病の痔の座薬のほかに庭の菜園で探取したトマトがあった。 香貫の家に移ってから牧水は台所の先にトマトやナスを植えた。米のとぎ汁や風呂場の木灰などをやって丹精こめていた。喜志子は喜志子で庭の隅に金網を張った小さな小屋を造って鶏を飼った。 旅人やみさきらは、父が士をいじり、母が大根葉をざくざくと刻んで米ぬかと合わせて鶏の餌を作る傍にしゃがんで、子供心にも家庭のやすらぎを覚えたものである。 赤く熟したトマトをほこらしげに携えてきた旅人も、二十三日には村の貸船壮快丸の息子から沼津港まで送ってもらって帰った。 牧水一人が残った。釣りも水泳も家族がいてのこと。ようやく持って来た仕事を片付けるため机に向かう余裕が生まれた。九月十日ごろまで滞在するつもりでいた。 月末には宿の主人が勘定書きを持って来た。四日から三十日までで、大人が五十日分、一日一円五十銭の割合いで七十五円。子供が二十七口分で二十円二十五銭。他に炭、西瓜、釣りの飼などを合わせて百五円十銭だった。 これにあと十日分の滞在費を加えると、先払いの分を差し引いても八十円ほどになる。すぐに送金するよう喜志子に言ってやった。 八月末になると古字の浜にも人影が少なくなった。夏休みの幾日かを楽しんで砂浜に水着の花を咲かせていた母子連れの姿も疾うになかった。土地の子供らもクラゲが出ると敬遠ぎみ。海辺の晩夏は静穏であった。 群れて啼く入江の隈の海鳥の声澄みとほる朝涼の風に 入江の空にとびかひながら海鳥の啼く音はしげし夕づく日となりて その静けさを破る大激震が大地を襲った。 つづき 第76週の掲載予定日・・・平成21年5月10日(日) |
関東大震災 (1p目/3pの内) 挿画 児玉悦夫 |