第 76 週 平成21年5月10日(日)〜平成21年5月16日(土)
第77週の掲載予定日・・・平成21年5月17日(日)
関東大震災 (2p目/3pの内) 挿画 児玉悦夫 |
大正十二年九月一日午前十一時五十八分四十四秒、関東地方にマグニチュード7・9度の大激震が発生した。いわゆる関東大震災で瞬時に各地に大災害が起きた。東京では通信交通機関、ガス、水道、電灯のすべてが停止、流言が飛びかい人心動転の極に達した。 大震災による死者九万一千三百四十四人、家屋の全壊焼失四十六万四千九百戸を数える大惨事になり、余震、火災が三日も続いた。 牧水は朝が早い。この日も朝食後、朝凪の海辺を散歩して帰り、二階の入り江向きの窓辺で机を前にしていた。階下から昼食の膳が上って来るのを待って煙草をくゆらしていると、ガタガタと部屋全体が上下動した。 思わず立ち上がると『大丈夫ですかあ、早く降りて下さい!』。主人が下から叫ぶ声に階段を二段ずつとんで降り、家の外に出た。付近の漁家の内儀連中も外に飛び出していた。それでもまだ地面の揺れは続いていた。 古字の被害はたいしたことはなかったが、沼津の家族の安否が気がかりだ。翌二日早朝の船便でいったん帰ることにした。 牧水としては、京浜地方が全滅に近い災害を受けているなど知るよしもない。妻子の無事を確かめたらまた古字にとって返すつもりで身一つ、いや酒瓶だけを手に船に乗った。その日、すぐに沼津から古字の高島富峰にあてて出した手紙が、その日の状況を伝えている。 『船中無事、両船とも全速力、乗客亦だ血相変えてシャガミ込む。一杯々々なめずりながら流石に酔い難し。(中略)早速車宿に入り乗車、田園にかかれば八幡の森あり一面の野営なり、途中逢う者皆、張目して挨拶す、心自ら躍る。 家の近所もまたみな道路野営、門を入れば先ず木陰に蚊帳見え畳見え人間見ゆ。家内実に惨憺、足の踏処もなし、二階などゆがみ果てたり。東京全滅(芝と何処とかの区を除いて)横浜全滅の風説あり(中略)。 第一困ったことは沼津に酒のないことだ。近所の小店はみな樽をつぶされ壜をこわされ、あとかたなし。アートン(注・大悟法のこと)勇を振ってこれより町中たんさくの上一升位は見つけて来るでしょうという有様なり(中略)。古字も同じく不安の日だろうとおもう。沈着と鋭敏とを祈る』。 沼津の家族も家も無事だった。牧水にとって第一の被害は沼津の酒全滅?であった。 それでも京浜の友人、知人の消息が心配だった。五日には牧水自ら上京のつもりだったが箱根から先が不通。やむなく中止して代わりに若い大悟法が中央、信越線回りで京浜に出かけることになり六日朝出発した。 九日には三万二千人が焼死した東京・本所被服廠跡で僧二百人が列座する法要があった。 |
六日朝出発した大悟法が十七日夕ようやく沼津に帰り着いた。牧水はそれまでにも断片的に社友や友人らの消息を伝聞していた。だが、つぶさに惨状を目にしてきた大悟法の現地報告は涙なしには聞かれなかった。 しかし幸いにも村松道弥、長谷川銀作・桐子夫妻ら数人が勤め先や自宅を失ったものの、奇跡的に全員無事だった。その後、大悟法が声を落として報告した。 『先生、『みなかみ紀行』が、マウンテン書房と一緒に焼けてしまいました。店ではすっかり印刷が終って製本するばかりになっていた、と残念がっていましたがー』 『そりゃあー、利雄さん。仕方がないよ。東京が全滅したんだから、いくら牧水センセイの本と言ったってお目こぼしにあずかるわけはない。』 紀行文集の出版はそうあきらめるほかはないが、牧水の怖れはもっと深い所にあった。これほど焼き尽されたのでは東京の早期復興は期待できまい。とすれば新聞、雑誌の発行はどうなるんだろう。新聞は報道の重要性から緊急対策がとられるにしても文芸欄は当分割愛されることになるだろう−。 新聞、雑誌の選歌、原稿料だけで生計を立てている牧水としては、地震で米びつをびっくり返されたようなものだった。あたりの混乱が徐々におさまるにつれてその危惧が心を暗くしていた。 いや、そんな先々のことより影響は目の前にあった。その新聞、雑誌社からの選歌料や原稿料の送金がばったり途絶えたことだ。一時的ではあったが、貯えなど皆無の若山家である。毎日の台所にもろにひびいた。 さすがの牧水、喜志子もはたと困った。 救いは『創作』の印刷を頼んでいる沼津市内の耕文社に被害がなかったことだ。活字ケースが棚から落ちただけで印刷機械には全然損傷がない。『創作』発行に支障がなかった。 十月号を『大震災記念号』として、一ヵ月を径てもなお余震と人心動揺が続く十月初旬に発行した。編集後便に『析も折の集金には弱っている。どうも大変な手数だ。どうか社費をば滞らせずに下さい』と書いている。 どうにか十月号を発送してほっとしていたところに信州の社友重田行歌から封書が届いた。『−ご心労のことと思います。気ばらしと保養のため秋の信濃路にお出かけ下さい』と二十円が同封してあった。 わが心憤(いきどほ)ろしも夜昼なくゆりつづくなるなゐうちまもりゐて 牧水は当時『急性神経衰弱』と自己診断する状態で、地震以来頭痛に悩まされていた。家族の手前多少の逡巡はあったが、思い切って彼の誘いに甘えることにした。 |
関東大震災 (3p目/3pの内) 挿画 児玉悦夫 |
八 ヶ 岳 (1p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |
牧水は十月二十八日朝家を出た。大激震の日から不通になっていた東海道線がこの日から全線開通した。沼津駅から御殿場駅まで列車、そこから馬車に乗った。震災のせいかどうか乗客は他にいなかった。 腰から上をすっぽり厚い雲でかくした富士山麓の林も野原も枯れていて渡る風が冷たかった。牧水は車内で身を縮めていた。 須走で馬車を降りた所にそば屋があった。かけそばを肴に酒を飲んでようやく生気を取り戻した。店の女性に買って来てもらった着ござをまとって歩き出した。 静岡から山梨県に越える篭坂峠への近道が思ったより険しい。過ぎるな、と思いながら飲んだ徳利三本目の酒がきいてきた。そのうえ旅立のため続けた夜仕事の疲れも出てきて歩きながらうつらうつらする。やれたまらずに路傍の草原に腰をおろしたらそのまま眠りこけてしまったらしい。 『もし々々、もし々々』 はっと眼を覚すと若い男が立っている。 『風邪をひきますよ』 牧水は頭をかきかき苦笑して立ち上った。親切な若者で『登りでしたらご一緒しましょう』と先に立って歩き出した。 見ると彼の顔半分に火傷の跡がある。東京で震災にあったものだ。そして問わず語りに、家業を立て直すため昨日は伊豆、今日は大月の親類を回って助力を乞うのだと言う。そんな身上話を聞いて歩くうちに思ったより早く富士吉田に辿りついた。 『キミ、どうですよかったら僕と一緒に泊っていきませんか』 こんな純情な若者と一夜酒をくみかわしたらまた面白い話も聞けそうだ。そう思ったから誘ったのだが、『そうもしておれません。東京の家で待っていますから』と、そそくさと電車に乗って行った。 吉田から日暮れ近い野原の中の道を洋傘を両手に持って前こごみに小走りで急いだ。河口湖の岸の中屋ホテルに着いたのが午後七時だった。 翌朝は同宿の反物屋と一緒に舟を仕立てて河口湖を渡った。湖面は霧雨でけむり真上にあおぐはずの富士は雲の上、ただ岸辺の村の柿の紅葉が濡れて鮮やかだった。 舟を降りしばらく歩くと西湖に出た。その端の小さい集落の家々に織が立っている。太鼓も聞こえてくる。鎮守様の祭礼であろう。 雑貸店に寄って酒と缶詰めを買ったついでに内儀に『おむすびを−』と恐る恐る頼んだ。彼女は気軽に『赤飯でよかったら』と握ってくれた。 青木が原の樹海の傍の道はずれでこの品々でゆっくり昼食をとった。 |
昼食後、森の中を一時間程歩くと湖に出た。精進湖だ。岸辺にモーターボートが係留してある。向こう岸に白亜の建物が見えた。 『あれに着けてくれないか』。 船頭にそう言うと、彼はまばたきして牧水の風体をうかがい、そして答えた。 『旦那、あれは精進ホテルで、一泊八円もとるんですよ』。 いやなことをいうヤツと不愉快だったが、八円も出せるわけはない。船頭の言葉に従って精進村の山田屋という手ごろの旅館に泊ることにした。 翌朝早く立った。名に似ず険しい女坂峠と、純白に輝やく富士を眼前間近に見た左右口(うばぐち)峠を越えて甲府駅に着き、列車で小淵駅まで行った。改札口を出ると打ち合わせておいた中村柊花が待っていた。駅の近くの旅館いと屋に連れ立って入った。 くつろいで飲むうちに柊花がいう。 『あなた、さぼしを知っていますか』 『さあ、聞いたことはあるようだが−』 『此の地方の、まあ名物ですがね。料理屋の娼妓のことですよ。きれいなのがいます。行ってみましょうか−』。 酔いも回っていたので出かけることにした。あやしげな料亭に登って何人かの娼妓を招いたが、目ざす美形はいない。がぶがぶ酒をあふっただけで二人もつれるように宿に帰った。十二時頃だったろう。 牧水がぶったおれるように眠ったあと宿では大騒動だった。一緒に帰った柊花がいない。主人、番頭、女中が総出で家中、井戸まで灯をとぼして探したあげく階下のランプ部屋にちょこんと座り込んでいるのが発見された。 どうしてランプ部屋などにまぎれ込んだものか、本人にもさっぱりわからないと言う。牧水が彼を部屋に引き立てて行ったころには白々と夜が明け初めていた。 翌日は早朝から柊花と二人草鞋をはいた。長野・山梨県境にそびえる八ケ岳連峰の裾野をめぐるわけだ。 八ケ岳連峰は赤岳(二八九九b)を主峰に二千四百bから二千八百b級の高峰が約三十キロにわたって連なっている。天地創造の神々が鉄斧を振るって削り取ったような岩稜が恐ろしいまでに荒々しい。日本アルプスに劣らぬ偉容を誇っている。 また、富士に勝る裾野が雄大だ。牧水が辿る南側だけでも三里ケ原、井出ケ原、念場ケ原、野辺山高原と続き、その広さは百二十平方キロにも及んでいる。 牧水と柊花は信州野辺山高原にある板橋の宿まで行く計画で道を急いだが、雨上りの道と疲れで足が進まない。ついに野原の中の一軒家の灯影を見つけて古障子を開けた。 つづき 第77週の掲載予定日・・・平成21年5月17日(日) |
八 ヶ 岳 (2p目/7pの内) 挿画 児玉悦夫 |