第 87 週 平成21年7月26日(日)〜平成21年8月1日(土)
第88週の掲載予定日・・・平成21年8月2日(日)
時告ぐる鐘 (4p目/5pの内) 挿画 児玉悦夫 |
柴田晋一は中学二年のころから短歌を作っていた。校友会雑誌や佐藤和七郎の『延岡新聞』に投稿して人に知られていた。『五橋』の雅号も佐藤が命名したもので柴田もいささか得意であった。 中学の大先輩である歌人牧水に是非自作の歌を見てもらいたかった。同級の康哉に相談すると一も二もない。紹介しようと言ってくれた。 康哉から話を聞いた牧水も快く会おうと言ってくれた。 その夜、白絣の単衣に紺の袴を着けた柴田が台雲寺を訪れた。自家で栽培していたトマトを五個、白いハンカチに包んで手土産にした。二階から降りてきた喜志子にトマトを渡して言った。 『延岡中学校の、先生の後輩の柴田と言います。先生に歌を見ていただきたいと思って参ったのですがー』 ハンカチの包みを受け取って喜志子はほほえんだ。『康ちゃんから聞いていました』そう言って書院に通してくれた。 牧水が間もなく姿を見せた。浴衣がけの気軽な様子だった。柴田が緊張した面持ちで出したノートをめくった。ノートに二百首あまりの歌を記していた。 柴田は大正十四年に創作社社友になっていた。『創作』にも、『詩歌時代』にも投稿していた。多忙の中を牧水が会ってくれたのも中学の後輩であることのほかに当時郷里では数少ない社友であることによった。 歌について二、三の批評があった後に雑談になった。柴田は創作社の中の新進歌人である大悟法利雄が大分県出身で牧水を慕って上京、いまは沼津の若山家に同居していることを『創作』の編集便りで知っていた。 『大悟法先生はどんな方でしょうか』 牧水に聞いた。牧水は最も信頼する愛弟子が話題になって口元をほころばせた。 『うん、大悟法君はねえ。チンがくしゃみしたというか、ガニをひっしゃげたというか不細工な男なんだよ。でも、ほんとにいい男でねえ』。 そう言って笑った。柴田も笑っていいんだろうと思って笑った。そのあと、中学での成績や将来の希望など酔ったような気分で次々と語った。大先輩の牧水は終始まじめに聞いてくれた。 翌朝、教室で柴田が康哉に言った。 『おい、長田君。オレは牧水の弟子になったよ。そうだろう。直接会って歌を見てもらったんだから、ゆうべから先生と弟子の関係だよ、ね、そうだろう』 柴田はこの夜の感激を以来忘れることがない。いまも歌を作ってその思いにひたる。 |
牧水夫妻は二十四日夜まで台雲寺に滞在、二十五日朝に貸切自動車を駆って坪谷に帰った。 谷次郎から五ケ瀬川の船遊びと高千穂峡見物を誘われていた。だが、それに従う体力も気力も失せていた。たまたま校歌の作詞を依頼されていた宮崎高等農林学校から西瓜二個が届いた。その一個を持たせて次郎に手紙をやった。 『きょう立たない腰を無理におったて半折だけ書いてしまいました。残りの分は明日片付けます。お話しましたお礼の分のこと明朝にもお知らせ下さいませんか。船、高千穂を諦めて早くお袋の顔が見たくなりました』 坪谷では富高からわざわざ写真師を招いて写真を撮らせた。母マキとスエ、トモ、シヅの三人の姉、姪のきぬ、きぬと夫陶山勲との間の長男義人と牧水夫妻がそろって写った。 勲は学校に勤めていて帰りが遅くなった。初めの撮影には間に合わなかったが、帰って来ると 『これで皆そろった。ご苦労だがもうー度並んでもらおう』 と、裏庭に出て撮影させた。このあと尾鈴山、坪谷川、裏山など故郷の風影を幾枚も写させた。異常なまでの執着ぶりだった。 写真は延岡でも撮った。台雲寺で長田観禅、咲子夫妻、長男康哉と妹二人、今西古郎、トモ夫妻と一緒に撮ったほか、谷邸ては産後のサダ子に無理を言って牧水、谷の両夫妻が庭園で写真におさまっている。 この時が牧水最後の帰省である。写真を撮らせたのは虫の知らせというものだろうか。後々の語り草になった。 坪谷では身内がそろって小宴になった。家の東と南側の障子を開け放つと門口にあるセンダンの青葉が涼しげだった。 話題は一昨年の初冬母と二人の姉を伴って別府の日名子旅館に遊んだときの思い出話になった。朝鮮旅行以来、別府で休養はしたものの大分、延岡と揮毫会が続いた。疲れが重なっているが、その疲れを忘れさせてくれる語らいであった。 『おっかさん、若山家もこれからじゃが、せいぜい長生きしてもらわにゃ』 『いんにゃ、今ぐらいがちょうどいい。高望みすると足踏みはずすかり』 『陶山君、姉がやかましいじゃろうが、坪谷の家は君が頼みじゃからよろしくたのむよ』 家族そろって父立蔵の墓参をすませて二十九日、土々呂港から乗船、三の宮の長田辰次郎方に一泊して三十一日に沼津の家に帰り着いた。 下痢が続いているうえに足がはれて歩行も困難だ。帰りつくなり寝込んでしまった。 |
時告ぐる鐘 (5p目/5pの内) 挿画 児玉悦夫 |
老松の梢 (1p目/4pの内) 挿画 児玉悦夫 |
旅行中はずっと脚の痛みや身体いたる所のしびれに悩まされ通しであった。旅行先で医師の診断を求めたが、ある医師は脚気だと言い、またある土地の医院では腸疾患からくる症状だと診立てられていた。 沼津に帰ってかかりつけの医師に往診を乞うたところ、『過労若しくは栄養不良による神経衰弱』に落ち着いた。 延岡の台雲寺に滞在中も、酒は朝三合、昼三合、夜四合と欠かさなかったが、米飯はほんの湯呑で軽く一杯。かと言って酒の肴もあれこれと数を並べて眺めているだけ。箸をつけてもままごとみたいな食べようだった。 余りの小食に食べ盛りの中学四年生康哉はあきれるばかりであった。 とにかく旅行中に積もり積もった選歌、紀行文の執筆も、布団の上に小さなちゃぶ台を置いて半ば腹ばって書きつづける有様だった。 此のため、医者にかかるだけでなく、即効の評判を聞いて土地の電気マ。サjジ師を招いて二十日余りも治療したが、はかばかしい効果はなかった。 結局は、元々好きな温泉療養に頼るほかはなかった。伊豆の船原温泉に九月九日から出かけなじみの船原ホテルに滞在した。十八日には喜志子も来たが、いつもは温泉でのんびりしていれば身も心も健康を取り戻す牧水だが、今回はここでも思わしくない。 脈博百二十、下痢が止まらず食欲もないという状態から湯治をあきらめて二十一日には沼津に帰ってきた。その後はほとんど家に籠もりがちで千本松原を朝夕散策する楽しみすら失っていた。 十月、涼風が立つようになってようやく庭に出てみるほどの健康をとりもどした。それに八月から庭に掘らせていた井戸が約九十b以上も深く掘って突然に清冽な地下水を噴き上げたことも牧水を子供のように元気づけた。 一方、この月には悲報ももたらされた。東京の喜志子の妹で長谷川銀作の妻桐子(潮みどり)が十三日永眠した。翌月十三日には東京・上野公園韻松亭で催された追悼会に牧水も喜志子と出席、長谷川家に一泊して帰った。 昭和二年は、ほぼ一年間を朝鮮旅行とその準備、疲労回復のための養生で過ごしたと言ってよい。数えの四十三歳。世間並みでは男盛りの年齢だが、長年の大酒の毒がようやくその身体に顕著に表われていた。 追悼会で上京以後は十二月十二日に好天に誘われて三島から富士の裾野を歩いただけで終わった。 海の風荒きに耐へて老松の梢の寂びたる見ればかなしも 据ゑおけばガラスの壜の酒のいろ其処の落葉のいろよりも濃き |
静やかに動かす鰭の動きにも光うごけり真昼日の池に 昭和三年の新春を迎えた。健康にかげりはあったが近年にない静かな思いで元旦の祝い膳に座った。九州、北海道、朝鮮とこの三,四年間は揮毫のための長旅が続いた。旅にある自分と妻喜志子の苦労もさることながら、幼い四人の子供たちに随分淋しい思いを強いて来た。 目的あっての事で決して徒労の歳月ではなかった。だが、昨年の夏以来、我が家に起居する日々が続いてみると、あわただしく経過した日々が何かむなしく、もったいない浪費であったかの如くにも思われる。 ことしは、じっくり机に向かうことにしよう。もうそう過ごすべき時節を迎えているのでなかろうか。反省しきりの新春であった。 そんな朝は、昨年の暮れ井戸の清冽な湧き水を引いて造った庭の池の端に行った。鯉や鮒を数多く放っている。 鯉の魚はおほまかにして鮒の魚ははしこかりけりとりどりに居る 庭の他の溢れつつありて静かなり部屋には蝿(はえ)の三つ二つとび 牧水の暮らしもまた井戸から噴き出る水がかすかな音を立て草の陰を抜けて池に注ぐように静かなものであった。 ただ例外があった。 この年の一月二十一日に時の田中義一首相が民政党の内閣不信案上程に先立って衆議院を解散、二月二十日に第十六回総選挙が行われることになった。わが国最初の普通選挙の実施である。 静岡県からは静岡新報社長で政友会の寺崎乙次郎が立候補していて牧水に応援演説を頼んできた。牧水が静岡新報の歌壇の選者をしている縁で是非共と言う。 牧水は政友会嫌いだったうえに演説は苦手である。断りたかったが、地元新聞のたっての要績てある。むげに断りもならず渋々引き受けることになった。 それと、千本松原の伐採問題がある。牧水ら保存派の活動で伐採中止になっているが、まだ完全鎮火ではない。その後もくすぶり続けているらしい気配がある。 選挙演説で沼津の千本松原の保護を訴えれば一石二鳥にもーと計算したのだった。 二月十六日夜、興津の芝居小屋で演説会があった。牧水は用意の趣旨を訴えたが、型破りの論調に聴衆はア然とするばかり。ついには場内が騒然となる。立往生の牧水は卓上のコップの冷酒をあおって島崎藤村の『常盤樹』を朗読してお茶を濁して終わった。予定時間の半分。牧水一世一代の選挙応援演説は散々の不出来であった。 つづき 第88週の掲載予定日・・・平成21年8月2日(日) |
老松の梢 (2p目/4pの内) 挿画 児玉悦夫 |