第 89 週 平成21年8月9日(日)〜平成21年8月15日(土) 

第90週の掲載予定日・・・平成21年8月16日(日)

曇りを憎む
(3p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫

  足の火傷は日光浴によるものだった。八月末頃から天気のよい日には午前と午後の二回、三、四十分ずつ縁側に布団をしいて腹ばいになり、足だけ日光にあてて読書していた。
 日光浴は確かに効能があると喜んでいたのだが、七日夜入浴したところひどく痛む。見ると土踏まずのところが丸くはれていた。抵抗力が極度に弱くなっている皮膚が強い晩夏の日光にさらされて火傷したものだ。
 薬を塗り湿布をしたためそれからは歩行が全く困難になり、食事時に茶の間に出ることさえ出来なくなってしまった。
 そのうえ、日光浴を始めた頃から口内炎を起して口中に小さな吹出物が出来ていた。それで次第に食欲をなくしていた。さらに下痢まで伴うようになったため衰弱が甚しくなってきた。
 八月二十七日に往診してもらった主治医稲玉信吾に九月九日来診を乞うた。稲玉医師は全身が衰弱しているので絶対安静にして加療が必要だと言う。
 稲玉医師は昭和三年十二月一日発行の『創作』若山牧水追悼号に『若山牧水先生の病況概要』を書いている。以下、その記述に従って牧水の病状の経過を辿っていく−。

 現症発病の状況、初診迄ノ経過
 昭和三年八月二十七日初診(往診)
 八月中旬ヨリ胃腸障害並二神経衰弱症状又々起り、食欲不振、胃部二圧重ノ感、下痢、不眠、知覚過敏等ヲ訴へラル。尚昨年春頃ヨリ旅行其他ノ為メ特二多量二痛飲スルニ至リタル酒ノ習癖ハ昨今益々甚シクナリテ四六時中酒気失セテハ何事モ手ニッカザルニ至レリト言ハル。

 初診時所見及ビ永眠迄ノ経過
 自覚症状トシテハ下痢、食欲不振、胃部圧垂、不眠、知覚過敏等を訴ヘラル。
 他覚的症状トシテハ胸部内臓二於テハ新二特記スベキ症状ヲ認メザリシモ、腹部二於テハ一般二梢膨満シ、肝臓腫大ス。打診上肝臓濁音界ハ増大シテ右乳線二於テ第五肋骨下縁ヨリ純濁音部トナリ、季肋弓を超エテ下方二延ビ、比較的濁音部ハ季肋下約三横指の所二及ブ。
 触診上肝下線ヲ触レ、梢扁平硬固ナレドモ純性ナリ。未ダ牌腫ナク、黄症、腹水等モ認メラレザリキ。痔核及ビ脱肛アリ。反射機能ハ高度二元進ス。
 両手指骨関接部ノ背面二於テ一面二黒色ノ色素沈着ヲ見ル。体温三十六度五分、脈博八〇至、最高血圧一三〇粍衷柱、最低血圧八〇粍未柱ナリキ。
 尚酒精中毒ノ症状顕著ナリキ。

 九日の診療のさいは症状はさらにひどく特に口内炎は咽頭にまで蔓延していた。

 稲玉医師から絶対安静は宣告されたものの九日は体温三七度前後、さして高熱でもないので本人はもちろん、喜志子でさえ二、三日すれば症状もよくなるだろうと、この頃はまだ軽く考えていた。
 十日は変化なし。ただ衰弱が著しいので食事をすすめたが食欲がない。わずかな重湯と卵黄、野菜スープなど口中に刺激の少ないもの極く少量とっただけ。酒も日本酒では口内炎にしみて痛いからと上等のブドウ酒に代えたが、それでは酒の味がしないとまた日本酒をすするようにして飲んだ。   牧水はそれでも読書は欠かさず『漱石全集』など読んでいる。一日に一冊ほども読了するので喜志子が『目が痛くありませんか』と気使うが『なんともない』と、本から目を離さないでいた。
 十一日、稲玉医師来診。牧水が『先生、下痢をとめてくれませんか』と訴えるが、今の状態ではむずかしいと答える。
 絶対安静を言い渡されているのだが、食事は必ず起きあがってわずかな酒を長時間かけてすする(口内炎益々甚シク、口腔粘膜、口唇、舌、咽喉ニモ及ビ更二鷲口瘡合併ス)。
 十二日、牧水は構臥したまま読書。喜志子は知人に誘われて千本浜に自生の亜熱帯植物を見に行く予定だった。牧水もすすめたが何か不吉な予感がして行かず、 日中夫の傍に付き添っていた。
 午後、牧水は締め切りを二、三日過ぎていた『主婦の友』の選歌の予選だけすませたのに順位と簡単な評をつけた。これが彼の最後の仕事になった。
 十三日、げっそり落ちた頬にかすかな笑みを浮かべて牧水が傍の喜志子に語りかける。
 『足は痛いし、その上念入りに火傷までし、音楽は盛んに奏するやら(下痢のこと) 口中は痛んで酒はまずいし、おまけに手にまで何かできて…申し分ないね。何かの罰かいな、これは…。親不孝の罰かも知れないな』
 冗談とはわかっていても喜志子には調子の合わせようがない。
 『…早く治してしまって悪魔払いを盛大にしましょうよ』
 『うん、そうだなあ。そうでもしなければやりきれんよ』
 午前十一時頃検温すると、このところ三七度前後だった体温計の水銀柱が三九度四分を示している。驚いて稲玉医師に電話した。
 稲玉医師も早速、駿東病院副院長立柄博士を同道して立会診察した。
 体温はさらに三九度八分に上り、脈博頻数微弱になった。全身特に胸腹、背部、四肢の皮膚に風疹様の発疹が見られた。
曇りを憎む
(4p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫
曇を憎む
(5p目/7pの内)




挿画 児玉悦夫

 牧水に昨日までの元気がない。手指が震えて何となく険悪な状態と見られたため、稲玉医師は強心剤を準備する間にまず『先生ノ常備薬タル日本酒ヲ約150∝、コップニ一杯ヲ進ズルニ忽チ梢元気ヲ恢復セラレ』、脈博も一四〇至を数えるようになった。
 続いて25%濃厚ブドウ糖液100ccの静脈内注射と安息香散「ナトリウム、カフェイン」の皮下注射をしたところ小康を得ることができた。
 だが、立柄博士との立会診察の結果は極めてよくない。喜志子を別間に呼んで告げた。
 『まだ急にどうこういうことはあるまいと思いますが、遠い親類や知人には一応お知らせになっておく方がよいと思います』
 喜志子は事態の重大さに愕然とした。その日から看護婦が付添うことになった。
 午後八時過ぎに再度稲玉医師が来診、ブドウ糖加リンゲル氏液550ccの皮下注射をした。牧水も随分と元気を取り戻していて、医師の応急処置の奏効に驚き手を合わせんばかりに感謝していた。
 日頃の礼儀正しい律気な牧水である。また下痢で汚れた衣類の始末をする喜志子にも
 『えらい事の世話になるな。よくなったらうんとお礼をするよ』
 しみじみと言う。喜志子は涙をこらえて、無理に笑顔を作って答える。
 『そうですとも。うんとおごってもらわなくっちゃね』
 十四日、牧水の足をさすりながら喜志子の両眼に思わず涙がにじんでくる。『どんなことがあってももう一度この足で立ち上がってもらわなくちゃ。ね、ね』そう訴えたいのを声に出せないつらい涙であった。
 今年小学校に入学したばかりの富士人をふくめて四人の子供たちはこの日学校を休んだ。みさきと真木子は、『お父さんの顔を見ると涙が出る。涙を見せるとお父さんが心配するから…』と、病室に来ても顔が見える側を避け
て座った。
 旅人は中学三年生。『ぼくがしっかりしていなくては…』と健気にそう思ってはいても落ち着かない。庭に出て青い空をあおぐと足がふるえ涙がふきこぼれた。
 付添いの看護婦が飲食物や薬は寝たまま吸呑でとるように言うが本人がきかない。吸呑では酒の味がしないと言うのだ。結局、酒だけは起きて飲んでいいが、食物は寝たままとることで折れ合った。
 この日には振り鈴を買って来させた。
 『お前や看護婦に夜通し起きておられては自分が苦しい。用がある時はこの鈴を鳴らすから二人とも安心して眠っていて欲しい』
 喜志子らの看病疲れを気づかうのだ。

  十四日はわりと気分がよかった。夕食時に大悟法が病室に入ると待ちかねていたように言葉をかけた。
 『まあ話して行って下さい。どうもやりきれない。さっき稲玉先生がおいでる前には、君と歌の競詠ができなければ俳句の競吟でもやろうと思っていたんだ。もう一句作ったよ。つれづれや天井をはふ百足の子゛。どうだ、うまいだろう』 牧水は時折り俳句を気軽に作っていた。起きて酒を飲めるので気分がよかったのだろう。
それで俳句になった。
 いい気分が酒の量にもつながり、夕食時に卵酒一本を飲んだあと喜志子に追加を頼んでさらに一本飲んでいる。
 夜にも九時頃、今度は大悟法に一杯持ってくるように言う。仕方なく持っていくと布団に腹ばいになってしみじみと飲む。
 『どうです。おいしいですか』
 『おいしいのといやなのと半分半分だよ』
 そこへ喜志子が入って来ると、しばらく考えている様子だったが、にこりとしながら声をかけた。
 『おい、また一句参ろう。秋の夜やのそのそと人の入りて来つ〃』
 この日の稲玉医師の記述−。『昨年以来主治医トシテ警告二警告ヲ申シ上ゲタル節酒ハ今日二至リテモ尚御自分乍ラ到底不可能ナルコトヲ嘆ゼラレ、苦笑セラレタリ。昼間ハ勿論、夜中モ酒気ナクシテハ睡眠不可能トナラル』
 十五日、郷里の母と姉たちに牧水の病状が重いことを知らせてやった。とりわけ母マキヘの通知は気が重かった。八十路をとうに超えた老母に、しかも雨風につけて母の身を案じていた当人がいま重態に陥っていることをどう伝えたらよいものかー。心が痛んだ。
 当の牧水はまだ最悪の状態になっていることに気づいていない。
 『どこも苦しいことはないが、お酒が欲しいよ』
 喜志子に甘えたような、恥ずかしいそうな表情をして訴える。寝て飲むことを条件に卵酒を作って吸呑で少量ずつ飲ませると、飲みくだすのがひどく苦しげだった。それでも 『ああこれで安心。一眠りしよう。あなたもお休み』
 そう言って眼をつむった。
 正午から沼津の人たちが見舞いに次々に訪れた。ラジオ“て『牧水重態』のニュースが流れたためだ。喜志子がそれを言うと、 『何のことだ。少しくらい病気で寝ていると重態だなんてけしからん。どうも田舎の新聞記者は暇なものだから』
 と、牧水は苦笑していたが−。

   
つづき 第90週の掲載予定日・・・平成21年8月16日(日)

曇を憎む
(6p目/7pの内)





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