第 90 週 平成21年8月16日(日)〜平成21年8月22日(土) 

第91週の掲載予定日・・・平成21年8月23日(日)

曇りを憎む
(7p目/7pの内)





 挿画 児玉悦夫

 十六日、『嗜眠状態ナレドモ時々オ酒ノ摂取ニヨリ元気ヲツケラレ、他ノ飲食物ハ止メテモオ酒ノミハ高度ノ衰弱ノ中ニモカ強ク請求セラレタリ。唯流石に昨日迄ハ無理ニモ上半身ヲ起シテノ上ナラデハ酒ノ味ナシトテ時ニハ御制止モ聞入レラレズ起キ上ラルルコトアリシガ、本日ハ其御体カモナク、為メニ却ツテ憂慮二堪へランザリキ』
 朝から容態が悪い。看護婦が喜志子に『いつどんなど急変があるかもしれません』と言う。喜志子は身体中の力がいっぺんに抜けていくような思いだった。だが、自分が気落ちすることが、牧水の容態の急変につながるような気がする。『私がしっかりしなくては』自分に言いきかせた。
 また、看護婦がこうも告げた。
 『奥様ね、大きいお坊っちゃまがおかわいそうなんですよ。私が熱を計ると先生が何度あるか〃とお聞きになりますから一度ずつ嘘を申し上げておきます。それを聞いたお坊っちゃんが外のお嬢さん方の所に行っておい、お父さんの熟が八度五分に下ったよ〃とおっしゃっておいでになりました。私はかわいそうでなりません』
 まだ年若い彼女が両の眼に涙をいっぱいためてそう言う。聞いた喜志子も両のたもとを眼に押しあてていた。
 午後から見舞客が多くなってきた。医師の指示で病室に面会謝絶のはり紙をした。それでも台所から客間にかけて混雑する。病人は寝たまま昼食をとっていたが、 『みんなにお酒を出しているか。忙しいのに遠くから来てくれた人たちだ。何かご馳走してくれ』
 『折角来てくれた人なのに女中部屋で物を食べさせるとはなにごとだ!』    喜志子に注文したり叱ったりする。できるだけ声や物音が病室に届かないよう気を配って女中部屋を使ったのにどうして病人にわかるのか。彼女は空恐ろしく思った。
 そのうち旧い友人の土岐善麿、郡山幸男がかけつけた。午後二時頃だった。もう今となっては極く親しい人だけには会っていただこうと言うことになり、二人を病室に案内した。
 牧水は二人の見舞いを喜んで顔に紅がさしたように見えるほどだった。苦しい中から『創作社の連中に酒は出してくれたろうね』などたずねている。二人が気づかって座を立とうとするがなかなか離さない。
 『東京から汗まみれで来たから身体をふいてくるよ』
 そうごまかしてやっと病人の傍から逃れて来た。牧水は病苦を遠来の友人にかくし、むしろ来訪を歓迎するつもりであった。牧水の心情を察して二人は廊下で泣いていた。

 十六日夜。牧水は刻々危険状態に陥っていた。稲玉医師は急変を慮って若山家に泊り込んで時折り病室を見舞った。そのたびに、牧水は苦しい息の下から 『先生、どうも私がわがままなばかりにお手数をおかけします。それでも先生のお陰で私も、家内も心強く思っております。ほんとにありがたいことです』一語一語区切りながら感謝した。その温かい言葉を聞きながら稲玉医師は、医者と患者の関係を超えた立場からも、この偉大な人物をどうにかして助けることは出来ないものか−。心を砕いていた。
 当の牧水はその頃にはうわ言をつぶやくようになり、看護婦が注射しようとするのさえ拒むようになっていた。ただ要求するのは酒。
 『もう一杯飲ましてくれ。そしたらよく眠れるから…』
 だが、飲んでも深く眠ることはない。うとうととしていると思うと、 『谷間に…一筋の水が流れて…』 とつぶやいてかすかにほほえむ。それから眼をさます。
 『何か夢を見ていましたね』
 『ああ、とてもいい夢を見たよ。あのね。お前や子供たち、それにおみよさん (女中の姉)もいた。何かしら大勢で汽車に乗ってどこかの野原でお弁当を食べながら騒いでいたんだよ』
 そう言って『母さん』と声をかけ、喜志子のひざに手を置いた。
 暦が十七日になった。
 『午前一時、体温四十度。脈博一五〇至。呼吸四五ヲ算ス。時々咳嗽アリ。両背面下部二軽度ノ肺炎様症状ヲ認メ、又腹部ニハ少量ノ腹水ヲモ感知シタリ。
 酸素吸入ハ時々之ヲ嫌ハレタレドモ、目ヲ醒マサルル毎二、日夜ノ看護二此ノ疲労ノ色サへモ現サレズ枕辺二端座セル喜志子夫人ニ「母さん」 (御子様方ガ毎度言ハレテ居ル日常語) 卜呼バレテハ、最好物ノオ酒ノ御催促ヲセラレタリキ。期ル御状態トナラレテハ、牧水先生ト不二トモ申シ上ゲテヨロシキ酒ハ強ヒテオ止メスルモ本意二非ズト考へ、請求セラルル侭二二口三口位宛差上ゲタリキ』。
 改造社の山本実彦社長が病室を見舞ったのはこの頃であった。牧水はそれを認めて 『いつぞやの集のことすっかり怠ってしまって失礼しました。少しでもよくなりましたら大悟法に手伝わしましてできるだけ早くまとめますから。あれは何部刷るのでしょうか…。あなたはこれは (盃を持つ仕草をして)
召上って下さいましたか。なんなら一本つけさせましょうか』
 山本に答えようがなく一座は静まり返った。
秋さびし
(1p目/2pの内)





 挿画 児玉悦夫
秋さびし
(2p目/2pの内)




挿画 児玉悦夫

 午前四時、戸外が白んできた。一睡もせずに枕頭に座ったきりの喜志子に声をかけた。
 『母さん、一杯くれ』
 吸呑で飲ましてもらってから枕元の時計を手にして言った。
 『いま四時二十七分。もう一時間もすると夜が明けるな。それを楽しみに一眠りするとしましょう』
 目をつむったが、またあけて周囲の人たちを見回して口元をゆがめて言った。
 『どうしてそんなにいつまでもオレを見ているんだ。夕べ酔っぱらって何かしくじりでもしたと言うのかー』
 妻と四人の子供、創作社社友ら一座の者はこみあげてくる涙と鳴咽を押さえかねていた。
 『−午前四時頃ニハ夜明ト共二御気分梢恢復セラレ、体温三十九度、脈博一三〇至、呼吸四〇トナリ、枕頭二座セル余二対シ「何時御出下サイマシタカ」トノ御言葉ニ「昨夜ハ遅クナリマシタカラ御当家デ一泊サセテ頂キマシタ」卜御返事申シ上ゲタルニ「ソレハ〃〃」卜懇二例ノ如ク温情ノ籠レル親シキ感謝ノ辞ヲ賜リキ』
 このあと牧水は前夜に比べて気分がいいらしく、稲玉医師相手に雑誌社から原稿を依頼されるのはいいが、締め切り目近くになると督促がしつこくなる。それが大変ですよ。そんな話をしたかと思うと、喜志子に向かって『汽車の切符は買ったか』などと聞く。
 確かな意識と錯覚とがまだらになってきた。午前七時二十分頃から病勢が急変した。
 『−冷汗淋漓、脈博頻数、細小、呼吸浅表トナリ、続イテ昏酔状態二陥り、脈博ハ漸次微弱トナリ、強心剤ノ注射モ其反応ナク』
 脈をはかっていた稲玉医師がその手を離し、頭を深々とさげて喜志子に告げた。
、『残念でございますが、先生にはご臨終でございます』
 『お世話になりました。ありがとうございました』
 喜志子は気丈にそう述べると、女中に言いつけてコップ一杯の冷酒を枕頭に運ばせた。夫へのせめてもの心やりである。
 『旅人、お父さんにお酒をさしあげなさい。みなさんもどうぞー』
 喜志子、旅人、みさき、真木子、富士人らが懸命に涙をこらえながら眠るが如き父の唇を酒でしめした。大悟法がこぶLで涙を押しぬぐってそれに続いた。
 『−終ニ百法効ナク、御家族、親族、友人、門下ノ方及ビ其他ノ関係諸氏ノ末期ノ水ニ代ハル酒ニ口唇ヲ湿サセツツ午前七時五十八分、千本浜ニ寄セテハ返ス波音ノ消工行ク如ク、静カニ安ラカニ、何等ノ苦痛ノ御気色モナク、永眠セラレ給ヒキ』

 牧水は眠るように逝った。ろうそくの火が名残りなく燃え尽きて最後の青い煙がありなしにただよっているような静かな臨終であった。
 一言の遺言も、辞世の一首もなく数え四十四歳の生涯を終えた。稲玉医師が記した死亡診断書の病名は急性腸胃炎兼肝臓硬変症(肥大性肝硬変)であった。
 『歌聖牧水、長逝す』の悲報をラジオ放送が全国に伝えた。十七日昼過ぎには各地から弔電が殺到し、弔問客が引きも切らなかった。このなかには、病気見舞いのつもりで訪れたのが悲しい弔問客に変わった客も少なくなかった。   同夜、自宅で営まれた通夜には約六十人がつめかけ広々とした家に座る場所がないほどだった。
 十八日には尾上柴舟夫妻や九州各地の創作社友らがかけつけ、通夜客が百人をゆうに越えた。日向から河野佐太郎、ス工、今西吾郎、トモ夫妻、大牟田から従兄の若山峻一らが集まった。
 告別式は十九日に行われた。前日、雨模様だったため気づかわれていた天候も朝から快晴になった。
 澄み切った秋空に富士の秀麗な姿が浮いていた。このところめっきり涼しくなった朝風が千本松浜の老松の梢で鳴っていた。
 富士と松原と海を愛するがゆえここ沼津を永住の地と定めた牧水をとぶらうに最もふさわしい秋日和に恵まれた。
 告別式場は故人が自ら設計図の線を引いた自宅で営まれることになった。座敷にしつらえた祭壇の周囲は全国の新聞、雑誌社、創作社友らが供えた秋の花々で埋まった。多数の参列者のために庭内に幾張も天幕をはって控え所を設けた。
 式は午後二時に始まり午後四時に終わった。早稲田大学以来の親友である日本歌人協会代表北原白秋がいま幽明境を異にする友人牧水に弔詞をささげた。
 謹んで若山牧水君の御霊前にぬかづきます。
 若山君、私たちは君がかう突然に逝去されようとは全く思ひがけなかったのです。私たちは君を失ってひとしく驚駭すると同時に君のために歌のために歌壇のために痛惜の情禁じえません。
 君の一生は専に短歌の一道にかかってゐられた。君は恬淡にして真率辺幅をかざらず常に諷々として歌に執し旅に思ひまたひたすらに酒を楽しんでゐられた。
 自然を愛しその寂蓼を寂蓼とする心は君の本質であられた。君のかぎりなき光芒はここより発せられすえながく映照することと信じます。

   
つづき 第91週の掲載予定日・・・平成21年8月23日(日)

君逝きて
(1p目/4pの内)





挿画 児玉悦夫
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