第 9 週 平成20年1月27日(日)〜平成20年2月2日(土)
第10週の掲載予定日・・・平成20年2月3日(日)
文 学 へ (3p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
文芸雑誌『新声』歌壇の選者金子薫園に認められたことは、牧水にと って画期的な事柄であった。 『新声』は、明治二十九年七月十日の創刊。菊判四十一ページ、二段 組み、定価五銭。編集者は佐藤儀助(橘香)。佐藤はのちに新潮社を創 設、三十七年五月に文芸雑誌『新潮』を発刊することになる。 また『新声』の刊行は二十九年七月から三十六年八月まで。三十六年 九月から一二十七年六月までの第二 二期と、休刊後の三十八年二月 から四十三年三月までの第三期(復刊期)の三期に分かれる。 もともと、この雑誌は詩歌、俳句の投稿を重視しており、創刊間もなく から作品を出している金子のほかに、名誉賛助員として大町桂月、河 東碧梧桐、武島羽衣、高浜虚子、正岡子規、佐々木信綱らが当初名を つらね、のちには落合直文、与謝野鉄幹も加わっている。 牧水の歌が採用されたのは、第一期のいわば爛熟(らんじゅく)期で、 詩歌、俳句のはかに広津柳浪の『文がら』、田口@汀の『罪不罪』をはじ め、小栗風葉、泉鏡花、徳富産花などの小説が登場、むしろこの分野 に重点がおかれてきていた。 平福百穂、一条成美らのさし絵を豊富に使ったのもこの雑誌の新機 軸で、多くの読者をひきつけることになった。 これま“て牧水が投稿していた雑誌は、中央発行の文芸誌とはいえ、 文学青年、少年らを対象にしたものだった。 『新声』歌壇は、おとなの文芸であり、ひのき舞台である。いよいよ 牧水の文学への道は歩一歩かためられ、引き返しのきかない段階に 突き進んでいくことになる。 牧水と「新声」との結び付きはその後、年を追ってふかくなる。 師尾上柴舟との出会いもその歌壇の縁であった。 歌人、国文学者、書家として輝かしい業績を残す柴舟は明治九年八 月二十日、岡山県の生まれ。 東京帝国大学国文科の出身で、早くから大口鯛二の門に入って歌 を学んでいる。訳詩集『ハイネの詩』のほか、『新声』の投稿歌と金子 薫園、柴舟の作を合わせた金子との共編『叙景詩』をいずれも新生社 から出している。 その縁もあって、東京女高師、早稲田大学の講師を兼務するかたわ ら三十六年十一月から『新声』歌壇の選者になっている。 第二期以降“て、休刊後の第三期にも選歌を担当して多くの新進歌 人を見出している。 その当時の柴舟の歌の主張は写実主義、写生主義で、ロマン派の 与謝野鉄幹の『明星』調をはっきり意識した新鮮な叙景詩(歌)を推奨 している。 |
牧水と柴舟との結び付きは、三十六年十一月以降の投稿者と 選者としてであった。 その後、三十七年四月、上京して早稲田大学予科に入るにおよ んで、正式に柴舟門下に加わる。同時に、のちに牧水・夕暮時代を うたわれることになる前田夕暮も入門する。 そのころの柴舟の歌の傾向は、『叙景詩』のころの写実、写生主 義から一転、西洋的、浪漫的な歌へと変ぼうしている。 さしわたる葉越しの夕日ちからなし枇杷の花ちるやぶかげの道 鈞床やハイネに結ぶよき夢を小さき葉守の神よのぞくな 無論、前者が『叙景詩』当時。後者は、三十七年十一月、詩歌集 『銀鈴』を新生社から出版したころの作である。そのちがいがはっ きりよみとれる。 牧水の歌が柴舟の影響をうけつつ、どう変遷の道をたどるか。回 を追い、歌を紹介しながらみていくことになる。 ともあれ、三十五年六月十五日号の『新声』に、初めて投稿歌が 採用されたことが、牧水の歌人としてのかくれたスタートとなったこ とは確かである。. 『新声』第一、二期を通して、この雑誌から巣立っていき、後世に 名を残すことになった詩歌人をあげてみよう。 高須梅漢、中村春雨、蒲原有明、生田長江、片上天弦、北原白 秋、土岐湖友(哀果・善麿)昇曙夢、相馬御風、若山牧水、前田夕 暮、正富汪洋、川路柳虹ら、まさに多士済済である。 牧水は、「中学文壇」「帝国少年議会議事録」「秀才文壇」「中学 世界」そして「新声」へ。中央の投稿文芸誌に自ら作品を送ること によって、文芸の海に目を見開いていった。 これら、明治時代の文芸雑誌はそのほとんどが投稿雑誌として 出発している。 今風に言えば、購読者参加の雑誌作りである。営業的な利点も 大きかった。発行者としては、あるいはそれがねらいであったろう。 だが、詩歌、俳壇の選者は当時一流の文芸家たちである。作品 の選考、指導に真撃(しんし)であった。 意図的であったかどうかは別に、結果的に地方に住む文学愛好 者の中から、光芒を放つべき素材を掘り起こし、世に導き出してい る。 商業雑誌であることに差違はないが、現代の文芸、総合雑誌と はその意味で大いに趣を異にしている。地方文化の開発に寄与 した力は現代人の想像をはるかに超える。 わが牧水、そして延岡中学校の文学愛好者、とりわけ『曙会』メン バ1の文学熱をいやがうえにも燃え上がらせることにもなった。 その世間的当否は別としてー。 |
文 学 へ (4p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
文 学 へ (5p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |
この六月、牧水の文学志向をさらにあふりたてる機会が訪れる。 牧水の父立蔵の弟純曽、つまり叔父が東郷村山陰で医院を開業 していることは先に紹介した。その長男峻一と牧水はいとこ同士とい うより、真の兄弟として幼時から親しんできた。七歳上の峻一を兄と 慕えば、実の弟同様牧水に目をかけている。 峻一は延岡小学校を卒業後、内藤家の私立学校亮天社に入学、 一年在学したあと熊本の九州学院医学部に進んだ。 ここからさらに、京都のドイツ語学校に学んだりしたものの、文学 的才能あふれる彼は医者になることをきらい、名古屋、熊本と漂泊 の生活をおくっていた。 牧水との間で手紙の交換は続いていたが、そうそうに相会う機会 はなかった。 ところが、同月十八日、峻一からうれしい便りが牧水の下宿先に 届いた。 牧水の日記を見る 六月十八日、雨 来状(冰花見)・・峻一は冰花と号した・・。 冰花兄、近々の中、御来舎、アルベシト、アハレ待チ遠キ今明日 ヨ。 そして、翌十九日の夕刻、峻一は人力車を乗りつけた。二人にと って四、五年振りの再会であった。 『中々二懐シィ、夜モ二時ゴロマデ語り合フ』二人。細々と降り続く さみだれは軒下に単調な雨だれの音を聞かせる。情まことにこま やかな夜であった。 文学のため祖父以来の医学を捨てた峻一。さりとて当時、文学で 生計を営み、名を成すことは至難というより無謀というべきであった。 失意を酒でごまかしながら他国を回り回って七歳下の牧水の下 宿を訪れた彼は二十五歳。兄らしく胸を張り、大言壮語をしてみて も悲惨さはおおいようもなかった。 彼もまた若山家の一人。酒を好んだ。この夜も酔ったあげくに、汚 いふろしき包みから一冊の本を取り出した。 薄田泣薫の第二詩集『ゆく春』であった。 薄田は明治十年五月十九日、岡山県の生まれ。岡山県尋常中 学校を二年で中退したあとは独学で文学を修めた。 『ゆく春』は、金尾文淵堂の文芸雑誌『小天地』・・前身は“ふた葉” て明治三十二年一月創刊・・の専従者時代の三十四年十月、文淵 堂から出版されている。 前年秋、世に出たばかりの『ゆく春』を峻一は大声を出して朗詞し た。両眼のうるみは酒のせいばかりでないことを、牧水はもとより 知っていた。 牧水は、この時、『ゆく春』を無理に譲り受け、以後、身辺から離さ なかった。 |
翌二十日も、雨は愛宕山の中腹から上体を深いもやにつつみこんでや まなかった。 牧水は学校を休んで終日、峻一と語り合った。峻一は、新詩社に入っ ているわけではなかったが、雑誌のゴシップや、漂泊地の知人らから聞 いて、社の事情に明るかった。 彼自身も新詩社風の歌を作っている。牧水は当時の歌壇を圧していた 『明星派』その他の新しい歌の傾向を峻一から聞かされたが、数日後に は、『若山冰花』の作品で、その新傾向をうかがい知ることになる。 峻一は、延岡に二泊して東郷村に帰った。父の家にしばらく身を落ちつ かせるが、その間の七月十二日から十六日まで、宮崎で発行している 『日洲独立新聞』に短歌四十首を発表する。 『日洲独立新聞』は、現在の宮崎日日新聞の前身で明治三十四年八 月に創刊されている。県紙としては、本県では明治二十一年創刊の『宮 崎新報』に次ぐ。その後、日洲新聞(明治三十八年−昭和十一年)と続 き、昭和十五年十一月二十五日、政府の戦時新聞統合策により、県内 新聞九紙を集めて『日向日日新聞』を宮崎市南広島通三丁目に本社を 置いて創刊することになる。 翌年春には、本社を現在の宮崎日日新聞社がある同市高千穂通一丁 目に移し、株式会社とした。宮崎日日新聞と題号を改めたのは昭和三十 六年一月一日である。 日洲独立新聞は、創刊後間もなかった。宮日は、日向日日新聞時代 から文芸欄に定評があったが、そのころは、まだその芽ばえは見られ なかった。その新聞が、四日間にわたって無名の冰花の作品を掲載し たのだから、破格の優遇ぶりであった。 歌は熊本から高千穂を経、延岡に泊って帰省する間の旅の歌である。 阿蘇の峰緑の声の艶けさを呪ふ神の子はむらの高き 神ここに天の岩戸をそと啓けて小村覗きし千穂のあけぼの 中学の従弟に与ふ (二首) 若うなりぬ二葉もいみじう丈けのびぬ翳せ千丈布引の滝 やよ汝窓に飛びかふ螢もあるに室覗く月悔しといふな 作品の優劣は判断しがたい。ただ、当時としては、自由奔放なうたい ぶりで、牧水ら『曙』同人を驚嘆させるに十分であった。清新とはかか る歌か、地方の文学少年らはしばし読み返しては語り合ったものだった。 七月は十四日から十六日まで期末試験。牧水は終わると、翌十七日 には帰省の途につき、同夜は従弟冰花宅に一泊、翌朝、坪谷に帰りつ いている。 |
文 学 へ (6p目/10pの内) 挿画 児玉悦夫 |