第 8 週 平成20年1月20日(日)〜平成20年1月26日(土) 

第9週の掲載予定日・・・平成20年1月27日(日)

  愛宕の嶺を
  
(9p目/10pの内)









       挿画 児玉悦夫
明治三十四年は、中央の投稿雑誌に牧水の作品が上位入選、
校内に文名が一躍高まることになった。
 だが、後の牧水の素地がつくられるのは翌年を待たねばならな
い。
 この年の夏。いつものように都農町の河野佐太郎宅をたずね、
数日を過ごしている。
 学校の春、夏、冬の休暇のたびに、坪谷から都農に足を運んで
いる。毎年の習慣で、このため、休暇の期間が級友より多くなる
こともあったらしい。
 延岡での学校生活を楽しむ一方、父母と姉が住む坪谷と都農へ
の愛着も人一倍強かった。
 だが、この夏はいつもと違った。
 長姉スエが、日ごろの達者さに似合わず寝込んでしまった。その
病気見舞いもあった。
 八月十日、坪谷から佐太郎あてにハガキを書いている。

 
拝啓
 昨日午後六時無事帰着仕候間乍他事御安神下され度候。
 滞在中は種々御厄介に相成り且帰村致す節は沢山の御賎別御
 土産など下され実に難有奉鳴謝候。猶姉上の病気御保養専一に
 候。
 先は御礼まで。                          草々

 律気で姉おもいの弟であった。
 冬には母マキが病床についた。十二月三十一日。延岡市の延岡
中学校の同窓生大内財三(蔵)に送ったハガキにそうある。

 
(前略)又、御親切なる御見舞状な給はり深く奉鳴謝候。母も近
頃は余程快方に相なり居候間午他事御安神を乞ふ。
 御言葉の如く休暇が偉大なる快楽を小生に投じたるは或は信に
て候らはむ。
 されど、常は門辺に立ちて待ち給ふ母君の満頭白きを表わして
床に横はらるるを見ては、さほど愉とも快とも覚え候らはざりき年
暮れむとして俗情脳中に充ち、筆を動かす能はず
  乞ふ君恕せよ             和歌山詩毛留

 長姉スエと牧水とは母子ほどの年齢の開きがある。河野夫妻は
牧水をわが子のように愛を傾けた。牧水もまた、母のように姉を慕
い、たよりにしている。
 保養専一 −は心からのいたわりであった。
 財蔵への手紙もまた母への気持ちが素直にあらわれている。
 いつも門辺に立って牧水の帰省を待ってくれる母。その母が、髪
白くして病床にある。この年の冬期休暇は、愉快というにはほど遠
い毎日であった。
 その思いを率直に友人に書きつづる牧水。母と子の深い愛をし
のばせるとともに、牧水と財蔵の友情の濃さをも物語っている。
 大内財蔵は牧水の終生の親友である。
 牧水には高等小学校、中学校時代から終生変らぬ友情を保ち続
けた級友が多くいる。
 その中で、特に、牧水の文学に影響を与えたのが、はじめに大
見達也てあり、後には大内財蔵である。そして、それは牧水の死
まで続いている。
 大内財蔵は、明治十五年六月二十五日、延岡市本小路の大内
太郎の三男に生まれた。牧水より三歳年長である。
 中学時代から文学を愛し、牧水らと創刊する『曙』『野虹』に多く
の短歌を残している。
 後に、鈴本家に養子に入り、鈴本姓を名のる。
 三十七年三月、牧水らと延岡中学校を卒業。第一回生である。
 同年七月に鹿児島造士館(七高)に入学、同四十一年七月に卒
業。同年秋九月、鈴本家を出て平賀節さんと結婚、平賀姓に変わ
った。
 さらに、新婚早々の節さんを残してその月にひとり上京。東京帝
国大学法科に入学した。
 当時の風潮である。平賀家では、あるいは当人も、当初は“末は
博士か大臣か”。ー 法学士としての前途を思い描いていたろう。
 だが、翌年は文科国文学科に移っている。中学時代からの文学
へのあこがれをおさえきれなかったものか。
 あるいは、当時、すでに北原白秋、前田夕暮、石川啄木、古井勇
らとともに新進歌人として歌壇に名声が日々に高まっていた牧水に
影響されたものか−。
 恐らくはその両方であったろう。そのころ、二人は東京の町を盛
んに飲み歩いている。
 平賀は、大正元年七月に大学を卒業。翌二年三月に岐阜県立
斐太中学校教諭を拝命する。その後、新潟中を経て、五年四月か
ら七年九月にかけて宮崎中学校に在職した。
 その後、九年一月に岡山県立矢掛中学校に赴任。同地を訪ねた
牧水と杯を重ねる。その折に作った牧水の歌。

   いのちありてけふのたのしさはるばると
          たづねきてなれとあひむかふなり

 一方、平賀財蔵、号して春郊も次の二首を詠んでいる。

    さけやめてひさしきわれもまれびとの
          このさかづきはいなみがたしも

    しみじみとねがほにのびしひげみれば
          たびゆくとものやつれしるしも


 大正十年五月十五日、矢掛町の平賀宅に一夜を過ごしての交
歓であった。二人はその前日、当地の短歌会てそろって講演して
いる。
 平賀は山口高校、松江高校(旧制)教授を歴任。昭和二十七年
五月二十七日没。七十一歳。彼についてはたびたびふれる。
愛宕の嶺を
  
(10p目/10pの内)











挿画 児玉悦夫
文 学 へ
  
(1p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
 明けて明治三十五年。牧水は十八歳の新春を迎えた。

 一月一日、曇、寒
 新玉の年立つ今日の長閑さと希望を抱いて起くれば、あなや曇、
上隣ノ矢野市太爺、病死。サリとは縁喜の悪い。賀状来ル分、河野
藤為、日高園、今西、金田、伊東金、直井、甲斐富、進藤政、小田
初喜寿、大見、佐野ノ十二君ヨリ。夕方ヨリ本村鈴木氏宅へ至リ九
時マデ止りテ帰ル。
 出状三十八通。

 元日の日記。来状、出状いずれも延岡中学校の級友らとの間の
ものが大部分である。
 前年、中央の投稿雑誌に次々と作品が採用され、一躍、延岡中
学の文芸仲間のりーダー格にまつりあげられた牧水は、この年、
さらに後年の若山牧水へ成長していく素地をつくることになる。
  『中学文壇』一月一日号に次の短歌一首が掲載されている。

     偶 感              日向 若山雨山

    家にいます母のやまひは如何ならむ夕暮寒き秋風の声

 病床にあって年を越した母マキは、前年秋ごろから病んでいた。
延岡からはるか、うす青き峡の奥坪谷の母を案じた一首である。
 病む母をしのんだ牧水の歌には、次の歌があり、
第四歌集『路上』(明治四十四年九月刊)に収められている。

       ふるさとの美々津の川のみなかみに
              ひとりし母の病みたまふとぞ

       さくら早や背戸の山辺に散りゆきし
              かの納戸にや臥したまふらむ


 話がわき道にそれた。先を急ぐ−。
 この年の二月、大見達也、大内財蔵、直井敬三、村井武、百渓禄
郎大、阿南卓、小荒戸俊男、山崎俊一郎ら中学の文学仲間と語り
合って同好会『曙会』を発会した。
 彼らはほとんど毎日、それぞれの家を行き来している。会が生ま
れたのは当然の成り行きであった。
 この会の回覧雑誌『曙』が発行されたのは同月十三日。九日の
日曜日に、若山雨山、村井柳雨、大内楓涯、小荒戸松月、直井敬
三の五人が、正午から午後五時ごろまでかかって編集した。
 牧水は、雨山と号している。
 回覧雑誌だから各自自筆の原稿を持ち寄って一冊にまとめれば
よい。内容は、美文、論文、新体詩、短歌、俳句と、ひとかどの総合
文芸誌なみである。
 本文の上には批評欄がある。回覧されるうちに、それぞれ短評を
書き加えていく。気のきいた仕組みになっている。

 この回覧雑誌は、後で発行される『野虹』と共に牧水らが中学卒
業後も続いている。会費も、当時の学校の授業料が月七十銭だ
ったころ、月三銭、のちには五銭を納入している。
 牧水らの意気込みが察しられる。
 牧水の文学的素地をつくる土壌になったわけだが、同時に、中
央の文芸雑誌『新声』を読みはじめ、『秀才文壇』『中学世界』等に
盛んに投稿しはじめたのもこの時期であった。
 曙会の集まりもしばしば聞かれた。二月二十三日の日曜日には
東海の浜に遠出している。
 日記に
『怒涛ヲ蹴ッテ東海ノ磯ニ長嘯ス、貝ヲ袷ヒ、みなヲにて食
フ帰路、鍋ヲ忘レテ犬失敗』
 来状(安達ヨリ二通)百渓兄ヨリ新声一号ヲ借ル。留守中加藤氏
来舎セラレタリト。

 怒涛(どとう)を蹴(け)って東海の磯に長嘯(ちょうしょう)す。
 若年ながら中央の雑誌にその名と、写真までたびたび紹介され
ている牧水。いっぱしの文筆家気どりが、日記のはしばしにうかが
われる。
 そのことは彼の号が次々と改められていることにも言える。
 『紅雲』『秋空』『桂露』から、明治三十五年初めには『雨山』と変
わっている。
 さらに同年夏には『白雨』になる。
 『雨山』『白雨』。牧水の生家は、尾鈴連山を真向かいに見る。雨
にけぶる山の姿には四季それぞれの風趣かおる。
 雨のたびに水かさを増し、水声を高くする坪谷川を間においての
眺めは、その味わいをいっそう深くする。
 故里に降る雨と、ぬれる自然を思い浮かべて号にしたものだ。他
に『白雨楼』『白羽』とも書いている。
 同年四月、牧水らは四年生の新学期をむかえる。五月五日には
親類になる黒木藤太が同校教師として転任してきた。
 二十五日は、学校創立記念日。大運動会があった。ただし、牧水
は『吾レハ挙行セズ』と日記にある。理由は不明。登校はしている。
終了後に菓子と弁当はもらっている。
 この新学期から、これまでの学校の制服が和服に袴(はかま)か
ら、洋服とクツに改まった。
 その後も、曙会仲開との往来はひんぱんであり、『曙』は、二号
が三月二日、三号が四月二十六日と続いて発行されている。中央
の雑誌への投稿も相変らず盛ん。そして『新声』(六月十五日号)
の歌壇に金子薫園選で歌一首が初めて掲載された。

      
くれなゐの袴つけたる若き巫女の
               月に笙吹く春日の御堂

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(2p目/10pの内)








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