第 7 週 平成20年1月13日(日)〜平成20年1月19日(土) 

第8週の掲載予定日・・・平成20年1月20日(日)

  愛宕の嶺を
  
(5p目/10pの内)









       挿画 児玉悦夫
 『新聞では本校校長をヒドク攻げきシテアルソデスガソンナニ悪イ
校長デハナイノデスヨ』
 と、山本に弁護している本校校長とは無論延中初代校長山崎庚
午大郎である。
 当時の新聞と言えば、県紙では明治二十一年発行の宮崎新報が
その草分けであった。
 次いで日州独立新聞が明治三十四年に創刊され、同三十八年ま
で続いた。
 このあと、明治三十八年から昭和十一年まで、日州新聞が県紙と
して世論を代表し、形成している。(宮崎県大百科事典)
 だが、これら県紙はいずれも発行本社を宮崎市に置いている。
 延岡では−。
 延岡市史によれば、日州新聞社が明治三十六年三月に延岡支局
を置いたのが、報道機関の始まりとする。
 延岡に発行所を置いた新聞は、『法談新聞』が最初てある。
 明治四十五年四月、本小路で印刷所を経営していた炭本次三郎
が、タブロイド版で週刊紙として創刊している。後には、週五日発行
まで拡大している。
 日州新聞延岡支局の開設時期が、市史の記述と、大百科事典が
言う日州新聞の創刊時期と食い違う。だが、ここで問う事柄ではな
い。
 ただ、牧水がこの手紙を書いた三十四年当時には、犬新聞はもち
ろん、県紙の記者もこの地方に常駐していなかった−ということだ。
 それがどうして『ヒドク攻撃』されることになったのかー。
 新進気鋭、学殖豊か、健筆家の初代校長。地方のおエラ方のごき
げんを損ずることかあり、それが宮崎あたりの記者に伝わりでもし
たのだろうか−。
 牧水とは直接関係のないことだが、県立延岡中学校の初代校長
だけに少なからず興味が持たれる。
 それはそれとして、山本に弁護する言葉の端々に山崎に寄せる牧
水の信頼のほどがしのばれる。また、そう訴える牧水と山本との関
係も友情と信頼に結ばれたものである。
 この手紙、なかなかの長文である。情もまた濃蜜てある。
 文面から想像すると、山本が遠く延岡を離れた土地に住んでいる
かのような印象を受ける。
 ところが、山本はずっと延岡市浜町に往んでいた。
 ここは、封筒の表書きにある『磯打ツ浪松吹ク風ノ里』である。
 長浜に寄せる日向灘の波音、防風林の老松の梢を吹く風が日夜
聞こえていた。
 愛宕山のふもと、古城の延岡中学校寄宿舎『明徳寮』と、浜町に
ある山本七郎の家。
 いくら田畑や木立、小川にへだてられていたとは言え、『当地方
へ御出デノ節ハー』とは、少々大げさに過ぎる。文面ては他国の
空へ雁のたよりの感じである。
 千里も一里、一里も千里−。恋人同士の間に様たわる空間を計
る尺度は没条理。牧水と七郎の仲もそれに近い。
 山本は、高等小学校を退学したあと家業の農業を継いだ。
 いまは、養子孫にあたる育男さんが跡を継いでいる。訪ねたら山
本の三男新さん(故人)の妻すまさんが迎えてくれた。
  『−こうした話を今になってするんでしたら、覚えておくんでした
が−』
 素朴な笑顔ですまなそうに語る。
 時折り、義父の話題に牧水の思い出がのぼることがあったらし
い。
  『牧水さんと学校がいっしょのころは、おじいちゃん(七郎のこ
と)の家は、難儀していたそうで−』
  『食べ物もそう豊かてない。長浜に泳ぎに行った帰りに寄って
もらっても、食べさせたのはふかしたカライモ。おじいちゃんのおば
あさんが、ふかしたんだそうでー。牧水さんは、東京に行ってから
も、“あのときのおばあちゃんのふかしイモが忘れられん”と、手紙
を寄越していたと、言っていました』。
  『それから、牧水はきちんと身体に合った仕立ての袴(はかま)
をつけている。ワシは借り着でツンツルテン。子供心に、どうしてオ
レのは合わないんだろうと思ったーと言っていましたよ』
 山本の退学の理由は家の経済事情によるものだった。
 その後、彼は恒富村役場の土木技手になり、農業水利工事にた
ずさわった。その縁で昭和二十三年から岩熊井堰普通水利組合
の理事。同土地改良区に組織変更になっても選ばれ、三十七年
退任まてこの仕事一筋に打ち込んでいる。
 彼の名を言えば『ああ、金米糖(こんぺいとう)じいさん!』とオウ
ム返し。
 工事係理事として直轄工事を担当、作業員を監督したが、腰に
金米糖の袋を下げていてサービスした。後では、陳情で中央官庁
を訪れたさい、お役人から大臣にまて、“献上”。“金米糖じいさん”
の名は東京までとどろいた−と古い市役所マンの語り草だ。
 三十三年の文化の日には県教委から文化功労賃も受けてい
る。岩熊井堰開削の恩人藤江監物(牧野延岡藩家老)の事跡調
査顕彰に意を注いできたためだ。
 山本は昭和四十四年八月六日まて生きた。
愛宕の嶺を
  
(6p目/10pの内)











挿画 児玉悦夫
愛宕の嶺を
  
(7p目/10pの内)










挿画 児玉悦夫
 さて、牧水の文学活動の芽ばえは校友会雑誌にみられたわけだ
が、当時、彼は『秋空』の雅号を使っている。
 牧水が保存していたこの雑誌の裏表紙に『若山秋空』の自署と、
『秋空』の印かおる。山本七郎にあてた手紙の封筒の裏書きに押し
てある印と同じである。当時、このほかに『紅雲』の雅号ももちいてい
る。
 牧水は、この年四月、三学年に進級のさい、明徳寮を出て級友人
見達也方に移った。
 実は寮でちょっとしたトラブルがあった。
 二年生のとき、寮内で文芸雑誌を読んでいたのが舎監に見つかっ
た。校内規則が厳格なうえに寮の決まりはなお厳しい。寮内で教科
書、参考書以外の書物を開くことは禁止事項であった。
 ひとから借りていたこの雑誌を泣く泣く火中にする仕置きを受け
た。
 この事だけが原因てはあるまい。決まり、規則てがんじがらめの寮
暮らしにいささかいや気がさしていたところにこの事件。
 それをきっかけに窮屈千万な寮から脱出したのだった。
 牧水の当時の読書ぶりは彼の次姉トモの長男今西稔からずっと以
前に聞いている。
 小学生だった稔が、佐久開方に牧水といっしょに下宿。机を並べ
たころのこと。
 ある夜、牧水がいたずらっぽく笑いながら打ちあけた。
  『稔ちゃん。きょうは驚いたよ。体操の時間に雑誌を持っていて
ね。あぶなく先生に見つかりそうになったつよ。それで、あわてて運
動場の砂場に埋めたつよ。放課後にこっそり掘り出してきたけど、冷
や汗かいたよ』
 体操の先生とは、山本への手紙にもある木原曹長ドノであったろう
か。それなら牧水の冷や汗が真に迫る−。
 大見方に移って牧水は寄宿舎生から通学生に転じた。もう大っび
らに好きな本が読める。文学書や文芸雑誌に没入する時聞か急激
にふえてきた。
 とくに大見は、牧水より二、三歳年長だった。桂嵐と号して、いろい
ろな雑誌に投稿していた。
 ひとかどの文学青年気どりだった。
 牧水が刺激されたことはもちろん。さっそく『中学文壇』に投稿した。
 それが同級生を驚かす成果を生んだ。
 処女投稿が三十四年七月一日号(第三巻十四号)の美文欄『月桂
冠』に採用され、しかも天地玄黄の黄賞、つまり第四位に入賞したの
である。
 作品は『夕べの思』。作者名は若山繁。牧水の得意や思うべしであ
る。
 次いで八月一日号にも採用された。

 次に採用されたのは、佐々木信綱選の和歌欄。
   
行き暮れて尋ねぬものを時鳥悲しき初音今ぞ聞くなる
 この時は、『若山佳露』と雅号で発表している。牧水の雅号は、『秋空』
『紅雲』を経て『桂露』になった。大見柱嵐の影響はここにも見られる。
 佳露はまた大町佳月にならったものであろう。佳月は高知市の生ま
れ。月の名所は桂浜−にちなんだ雅号『桂浜月下漁郎』を縮めて佳月
とした。
 明治二年一月二十四日生まれの佳月は、明治二十九年の東京帝大
国文科卒業以前から、文学雑誌に評論、美文、新体詩を発表、若年に
して名文家の名が高かった。
 卒業後、三十二年に島根県の中学校教師になったが、翌年夏、博文
館の招きに応じて入社。『太陽』『文芸倶楽部』『中学世界』に執筆して
いる。
  『中学文壇』は東京神田今川小路の北上書店から出ていた投稿雑
誌で、一日と十五日の月二回発行されている。
  『中学世界』は明治三十一年の創刊で同じく月二回発行している投
稿雑誌。佳露、牧水の手に届くに至らなかったかもしれないが、大町佳
月の名は、文学青年たる彼らの耳目に入らぬはずはない。
 文学を志す中学生の登竜門とされた『中学文壇』に入賞、口絵に写真
が掲載されたのだから、いよいよ牧水の文学熱は高まる一方だった。
 本人だけでなく周囲の目も違った。以来、毎号、散文、和歌、俳句を
投稿、そのたびに上位入賞するから“実力”の定まった感。文名が先輩
格の人見のそれをいつしかしのぐことになった。
 当時の投稿雑誌に『帝国少年議会議事録』があった。文学的色彩が
濃い雑誌だが、『中学文壇』『中学世界』と一味違う特徴があった。
 記事のはじめに、『議場』という欄があった。そこを編集部が出したテ
ーマによる討論の場としていた。誌名の起こりてある。
 人見は前からこの雑誌に投稿しており、同年十一月二十四日に、帝
国少年議会延岡支部発会式を行なっている。
 言わばこの雑誌の愛読者クラブ。参加者にとっては同人の集いのつ
もりだったろう。
 大見の努力で十三人が入会、牧水がこの仲間の選挙で支部長に推さ
れた。
 翌年の三月号からこの雑誌にも牧水の名が各欄に見られるように
なった。
 名実ともに牧水が、延岡中学校文学愛好生のりーダーとして認められ
るに至った。
愛宕の嶺を
  
(8p目/10pの内)








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