早稲田大学のころ

 


岡山県阿哲郡哲西町二本松峠の歌碑                



 この歌を作ったころの牧水(左)
  幾山河 越えさり行かば 寂しさの
       はてなむ国ぞ けふも旅ゆく




  この歌は、明治四十年、大学四年生の夏休みに中国地方を旅行
 した途中、 岡山県の山手の 二本松峠の茶屋 から友人に差し出
 したはがきに書いてありました 。


牧水は明治三十六年中学校最終学年を迎えて将来の進路を決めねばならぬ歳 になりまし
た。
 牧水は家が代々医者だから医の学校に進学して父の後を継がねばならないだ ろうか、そ
れとも自分の好きな文学の道に進もうかと悩みました。
 その頃文学の造けいの深い英語の柳田先生が、しきりに牧水に早稲田の文科 に進むよう
奨めました。牧水は時の御手洗校長先生の意見も聞きました。
 先生も早稲田の文科をすすめました。
 牧水は早稲田の文科に入学することを決して、父と都農の義兄に了解を求め る手紙を出し
ました。


 「私は早稲田大学の文科に進むことに決めましたが、学費が月十三円いります がこれを総
べて送金してくれる資力は父には無いから、兄さんが月々の授業料二 円五十銭を送って下
さい、卒業したら払います。下宿料の七円は父から送金して もらいます。残りは私がつくりま
す」



 
父は早稲田進学を賛成でしたが義兄は不賛成でした。
 牧水は義兄が不賛成なので落胆して毎日憂うつな日を送りました。
 この頃牧水は中学校の国語担任の黒木先生宅に下宿していました。
 黒木先生が牧水に同情して都農の義兄に愛情に富んだ手紙を出しました。
 これで義兄も早稲田の文科入学を許しました。
 明治三十七年三月二十九日、県立延岡中学校を七番の成績で卒業し、同年四月
十二日に早稲田大学高等予科に入学しました。


 早稲田大学入学のために上京の途についた明治三十七年四月四日の日記に次の ように記
しています。


 「四月四日 雨 暁ぶかく、家を出づ。
 ああわれは遂に家をいづるなりけり、再び笑みてこの里、この家にかえるは いつの春ぞ、見
送らむと門につどえる近隣の人々、さては父君姉君、泣かじとつ とめてかの石原鼻をめぐれば
とどめがたきそれ、思わずはらはらと溢れぬ。
 折から雨の、母衣のぶかきがせめてもなり。
 山陰(やまげ)の叔父君宅に寄れば美々津の福田実次郎君もあり。
 母(細島まで吾を見送らむとて来らる)を待ちて細島に向う。
 細島は日高旅館にとまる。
(後略)



早稲田の三水
 (左から射水、蘇水、牧水)
  大学では歌を尾上柴舟先生について学びました。
  
詩人の北原白秋とは同期で二回同じ下宿で勉強し
 た親しい間柄であります。

  
当時白秋は射水と号し、他に歌の友に中林蘇水
 
がいました。
 
 
牧水、射水、蘇水早稲田の三水と呼ばれました。
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